できごと

アユタヤの陥落

Fall of Ayutthaya
AD1767年
重要度 3
アユタヤの陥落に関わる図版:Burmese-Siamese war (1765-1767) map - EN - 001
Burmese-Siamese war (1765-1767) map - EN - 001 Wikimedia Commons Aristitleism · CC0

概要

ビルマ軍が400年続いた都を焼いた。記録の多くが失われ、王朝はバンコクで建て直される。

場所

アユタヤ
14.35°N 100.57°E · タイ

関わった人(1)

タークシンAD1734年4月17日–AD1782年4月7日 · 包囲を突破し、のちに再統一する

本文

アユタヤは、チャオプラヤー川とその支流に囲まれた島の上の都だった。1351年に建てられてから(アユタヤ朝の成立)、400年あまりにわたってシャムの王朝の都であり続けた。海から川をさかのぼって船が着く港でもあり、17世紀には中国、日本、ペルシア、ポルトガル、オランダ、フランスの商人が町に住み、それぞれの居留地を作った。日本人町もその一つである。ヨーロッパから来た人々は、この都をパリやロンドンにも劣らない大きな町と書き残している。

アユタヤには長年の宿敵がいた。西のビルマである。16世紀には一度ビルマに都を落とされて属国となったが、ナレースワン王が独立を取り戻した。18世紀のなかば、ビルマにアラウンパヤーが新しい王朝を建てると(コンバウン朝の成立)、再び戦いが始まった。1760年、アラウンパヤー自らアユタヤを攻めたが、包囲のさなかに傷を負い、退却の途中で死んだ。

コンバウン王朝の武官の軍服
コンバウン王朝の武官の軍服Wikimedia Commons Illustrated London News · Public domain

その子のシンビューシン王は、父のやり残した仕事を果たそうとした。1765年、ビルマ軍は北と西の二方面からシャムへ攻め入り、各地の町を落としながらアユタヤへ迫った。1766年の初めには都を囲み、包囲は14か月に及んだ。

アユタヤは川に囲まれた天然の要塞で、雨季には周りが水に浸かって攻め手は動けなくなる。過去にも、この水が都を守ってきた。だがビルマ軍は雨季にも退かず、高い土地に陣を構えて居座った。城内では食糧が尽き、疫病が広がった。シャムの宮廷は内部の対立で統一した指揮がとれず、エーカタット王は和を求めたが、ビルマ側は応じなかった。

ワット・プーカオトーンの仏塔。ビルマ・シャム様式が融合、1569年の第一次アユタヤ陥落時にビルマ王バインナウンが建立
ワット・プーカオトーンの仏塔。ビルマ・シャム様式が融合、1569年の第一次アユタヤ陥落時にビルマ王バインナウンが建立Wikimedia Commons Ddalbiez · CC BY 3.0

1767年4月、ビルマ軍は城壁の下に掘ったトンネルから火を放って壁を崩し、城内へなだれ込んだ。町は焼かれ、王宮と寺院が壊され、仏像を覆う金ははがされて溶かされた。王族や貴族、職人を含む数万人の住民がビルマへ連れ去られた。エーカタット王は逃げ出したが、数日後に死んでいるのが見つかったと伝えられる。死に方については、飢えによるとも、撃たれたともいい、はっきりしない。

ビルマ軍は都を焼いたあと、わずかな守備隊を残して早々に引き揚げた。このとき北からは清の大軍がビルマに攻め込んでおり、シンビューシンは兵を戻さねばならなかった。アユタヤは征服され、支配されたのではなく、壊されて捨てられたのである。

アユタヤの都市図(1665年頃、ヨハネス・ヴィンボーンス画)
アユタヤの都市図(1665年頃、ヨハネス・ヴィンボーンス画)Wikimedia Commons Johannes Vingboons · CC0

包囲が続いていた1767年の初め、地方の将軍だったタークシンは、数百人の兵を率いてビルマ軍の囲みを破り、東の海岸のチャンタブリーへ逃れていた。タークシンは中国系の父を持ち、華人の商人たちの支援を受けて兵と船を集めた。都の陥落から7か月後、タークシンの軍はチャオプラヤー川をさかのぼり、ビルマの守備隊を打ち破った。焼け落ちたアユタヤを再建するのは難しく、タークシンは河口に近いトンブリーに都を置いて王となった。その後数年かけて、地方に割拠していた勢力を次々と倒し、シャムを再び一つにまとめていく。

失われたものは大きかった。王宮の文書庫は焼け、アユタヤ時代の記録の多くが消えた。今に伝わるアユタヤの年代記は、多くが後の時代に、生き残った断片と人々の記憶をもとに編み直されたものである。そのため、アユタヤの歴史には、版によって年や出来事が食い違う部分が多く、外国人の旅行記や商館の記録で補いながら読むしかない。

アユタヤ時代のシャムの戦船
アユタヤ時代のシャムの戦船Wikimedia Commons Iudexvivorum · CC0

1782年、タークシンを退けて王位についたチャクリー家のラーマ1世は、都を対岸のバンコクへ移した(バンコクへの遷都)。新しい都は、意識してアユタヤを手本に造られた。王宮と寺院の配置、運河の巡らせ方、宮廷の儀礼が、失われた都をなぞるように整えられた。アユタヤの廃墟から運ばれたれんがが、バンコクの城壁に使われたともいわれる。焼かれた都は、形を変えて新しい都の中に生き続けた。この王朝が今のタイ王室であり、のちにシャムの近代化を進めることになる。

アユタヤの遺跡は、今も首をはねられた仏像や崩れた仏塔が並ぶ姿で残っている。木の根に包まれた仏頭は、その象徴としてよく知られる。1991年に世界遺産に登録された。タイでは、この陥落は国が滅びかけた記憶として語られ、ビルマとの長い対立の歴史の中でも最も大きな傷として扱われてきた。

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