できごと

関東大震災

Great Kantō earthquake
AD1923年9月1日
重要度 4
関東大震災に関わる図版:The Great Kanto Earthquake (3767766524) (cropped)
The Great Kanto Earthquake (3767766524) (cropped) Wikimedia Commons urbzoo · CC BY 2.0

概要

10万人以上が死んだ。混乱のなかで流言により朝鮮人らが虐殺される。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

本文

1923年9月1日、土曜日。この日は能登半島の辺りを台風から変わった低気圧が通り、関東には朝から強い南風が吹いていた。午前11時58分、相模湾の北部の地下を震源とする大きな地震が起きた。規模はマグニチュード7.9と推定され、神奈川県と東京府を中心に、関東の南部が激しく揺れた。大きな余震も続いた。

ちょうど昼食の支度の時間だった。東京や横浜の家々の台所では、かまどや七輪に火が入っていた。木造の家が倒れると、その火が燃え移った。東京の市内だけで百数十か所から火の手が上がったとされ、水道管は地震で壊れて消火の水が出なかった。火は強い風にあおられ、向きを変えながら燃え広がり、2日後の朝まで燃え続けた。東京の市街地のおよそ4割が焼けた。

関東大震災による惨状(横浜市中区)
関東大震災による惨状(横浜市中区)Wikimedia Commons Public domain

最も多くの命が失われたのは、隅田川の東の本所にあった陸軍被服廠の跡地である。工場が移転した後の広い空き地で、周りの人々が家財道具を持って逃げ込み、数万人がひしめいていた。そこへ四方から火が迫り、炎の竜巻のような火災旋風が起きた。持ち込まれた荷物にも火がつき、この一か所だけでおよそ3万8千人が亡くなった。

横浜では、地盤の弱い市の中心部で建物の多くが倒れ、そこから出た火で街はほぼ焼き尽くされた。神奈川県の沿岸では津波が押し寄せ、山あいでは土砂崩れが村や列車を呑み込んだ。死者と行方不明者は合わせて10万5千人ほどと推計されており、その9割近くが火災によるものだった。家を失った人は百万人を優に超えた。日本の近代の災害で、最も大きな被害である。

混乱は、人の手による惨事も生んだ。地震の日の午後から、朝鮮人が放火している、井戸に毒を入れた、暴動を起こしているといった根も葉もない流言が広がった。日本は1910年の韓国併合以来、朝鮮を植民地として支配しており、1919年の三・一独立運動の後、朝鮮人の抵抗への警戒心が日本の社会に根を張っていた。警察や軍の一部も流言を事実として伝え、内務省の警保局から各地への電報にも、朝鮮人が放火などをしているという内容が含まれていた。9月2日には東京とその周辺に戒厳令が敷かれた。

三・一独立運動に関わる図版:L’Indépendance de la Corée et la Paix-02
三・一独立運動Wikimedia Commons Bureau d'information coréen · Public domain

各地で住民が自警団を作り、刀や竹やり、こん棒を手に辻を固め、通行人を呼び止めて問い詰めた。朝鮮人と疑われた人々が、その場で殺された。中国人の労働者も殺され、言葉のなまりから朝鮮人と疑われた地方出身の日本人も殺された。千葉県の福田村では、香川県から来た行商の一行が襲われ、子どもや身ごもった女性を含む9人が殺されている。殺された朝鮮人の数は、当時の政府の調べと、朝鮮人の側の調査とで大きく食い違い、いまも確定していない。2008年に内閣府の中央防災会議の専門調査会がまとめた報告書は、殺害が行われたことを認めたうえで、犠牲者は震災の死者の1から数パーセントにあたると推計している。詳しくは関東大震災と朝鮮人虐殺に記す。

同じ混乱に乗じて、国家の側による殺害も起きた。東京の亀戸では、労働運動の活動家たちが警察に捕らえられ、軍の兵士に殺された。9月16日には、無政府主義者の大杉栄と、そのパートナーの伊藤野枝、そして6歳の甥が、憲兵大尉の甘粕正彦らに連れ去られて殺され、遺体は井戸に投げ込まれた。甘粕は軍法会議で懲役10年の判決を受けたが、3年足らずで出獄している。

本所被服廠跡地の避難民を襲う火災旋風を描いた図
本所被服廠跡地の避難民を襲う火災旋風を描いた図Wikimedia Commons 浦野銀次郎 · CC0

焼け跡からの復興は、内務大臣となった後藤新平が率いた。後藤は大規模な区画整理と幅の広い道路、公園を備えた新しい都を描いたが、予算は議会で大きく削られた。それでも、昭和通りや隅田川に架かる新しい橋、小学校に隣り合う小公園などが造られ、木造の家に代わる鉄筋コンクリートの集合住宅として同潤会アパートが建てられた。経済の面では、震災で決済できなくなった手形の処理が長く尾を引き、1927年の金融恐慌の引き金の一つになった。

9月1日は1960年から「防災の日」とされ、各地で避難訓練が行われている。木造の家が密集した街と火災という関東大震災の教訓は、その後の都市計画と防災の出発点になった。そして震災の記憶は、自然の揺れそのものだけでなく、不安の中で流言がどれほど速く広がり、人々を暴力へ駆り立てるかという問いとともに、語り継がれている。

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