ラグーサの検疫
概要
黒死病の30年後、アドリア海の商業都市が、疫病の地から来た船と人を島に30日留めると決めた。世界で最初の検疫の法。ヴェネツィアが40日にして「クアランタ」から「クアランティン」。病の原因を知らずに、隔てることで防ぐことを覚えた。
場所
42.65°N 18.09°E · クロアチア
本文
1377年7月27日、アドリア海の東岸の港町ラグーサ(いまのクロアチアのドゥブロヴニク)の大評議会が、一つの決まりを定めた。疫病の流行している土地から来た者は、まず町の外の小島ムルカンか、南の町ツァヴタトで一か月とどまり、身を清めてからでなければ、町とその領内に入ってはならない。法として書き残された、世界で最も古い検疫の決まりとされる。
ラグーサは、城壁に囲まれた小さな都市国家だった。耕せる土地はわずかで、富は海の商いから来た。バルカン半島の内陸の鉱山の銀や鉛、塩、毛織物を扱い、東地中海と西ヨーロッパを結ぶ中継の港として栄えた。1358年にヴェネツィアの支配を離れ、ハンガリー王を形の上の主君に仰ぎながら、事実上独立した共和国として振る舞っていた。

その港に、1348年の1月、黒死病が届いた。船とともに来た病は町の人口の多くを奪い、その後も十数年おきに戻ってきた。商いを止めれば町は飢える。だが船を迎え入れ続ければ、疫病が繰り返し町を襲う。黒死病からおよそ30年後のこの決まりは、そのあいだに折り合いをつける試みだった。
決まりには、細かい定めが付いていた。町の者が、とどめ置かれている者のところへ出向けば、その者も同じく一か月とどめ置かれる。食糧などを届けるには、役人の許しを得て、相手に触れずに渡さなければならない。決まりを破った者には罰金と罰が科された。30日という期間は、のちに「トレンティーノ」と呼ばれた。

当時、病がなぜ広がるのかは、誰にも分からなかった。医者たちは、腐った物から立ちのぼる悪い空気「瘴気」が病を運ぶと考え、星の配置のせいだと説く者もいた。ペストの菌を運ぶネズミとノミが突き止められるのは、500年以上あとの19世紀末、第三次ペスト大流行のときである。それでもラグーサの人びとは、病が人や荷とともにやってくること、しばらく隔てておけば病はやがて現れて消えることを、経験から学んでいた。原因を知らないまま、効く対策を作ったのである。
この考えは、地中海の港町に広がっていった。最大の商業都市ヴェネツィアは、1423年、潟の中の島に、疫病の患者を収容する施設を設けた。のちに、来航した船と人を島に40日とどめる仕組みが整えられた。イタリア語で40日は「クアランタ・ジョルニ」。ここから、英語で検疫を意味する「クアランティン」という言葉が生まれた。なぜ30日が40日に延びたのかははっきりしない。古代の医学で急な病が峠を越すとされた日数や、キリストが荒野で過ごした40日など、聖書の数にちなむとする説もある。

ラグーサ自身も仕組みを整えていった。14世紀の末には疫病を取り締まる役人が置かれ、16世紀の末から17世紀にかけて、町の東の門の外に、隔離のための大きな建物群が造られた。商人と荷は、ここで決められた日数を過ごしてから町に入った。この建物は、いまも海辺に残っている。
検疫は完全ではなかった。ラグーサはその後も何度か疫病に襲われ、多くの死者を出した。1720年のマルセイユのペストのように、検疫の手抜かりから大きな流行が起きた例もある。それでも、港で船を止めて人を隔てるという方法は、ペストのあとも、コレラや黄熱病の時代を通じて、国際的な決まりへと育っていった。ヨーロッパでペストの大流行が姿を消していった理由の一つに、検疫の広がりを挙げる研究者もいる(物語「『疫病と世界史』で読む歴史」)。
ラグーサの共和国は、1667年の大地震で町の大半を失いながら立ち直ったが、1808年、ナポレオンの軍によって四百年余りの独立に幕を下ろされた。2020年、新しい感染症が世界に広がり、各国が入国した人に一定の日数の隔離を求めたとき、その言葉の起こりと、ラグーサの古い決まりが、改めて思い起こされた。