できごと

ラグーサの検疫

Quarantine at Ragusa
AD1377年7月27日
重要度 4
シベリアの諸集団キプチャク汗国リャザン公国マムルーク朝ノヴゴロド公国マリ帝国サーミノルウェー神聖ローマ帝国リトアニア大公国ハフス朝ティムール朝ポーランド王国フランス王国English territoryセルジューク朝スウェーデンマクリアカスティーリャ王国カネム=ボルヌハンガリー王国ハドラマウトモロッコTeutonic Knights東ローマ帝国イエメンアラゴン王国ブルガール可汗国デンマークマスカットシチリア王国ポルトガルRaškaスコットランドオスマン帝国ヴェネツィア共和国AD1377年7月27日ドゥブロヴニク(ラグーサ)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1377年7月27日の版図を描いています(36勢力)。

概要

黒死病の30年後、アドリア海の商業都市が、疫病の地から来た船と人を島に30日留めると決めた。世界で最初の検疫の法。ヴェネツィアが40日にして「クアランタ」から「クアランティン」。病の原因を知らずに、隔てることで防ぐことを覚えた。

場所

ドゥブロヴニク(ラグーサ)
42.65°N 18.09°E · クロアチア

本文

1377年7月27日、アドリア海の東岸の港町ラグーサ(いまのクロアチアのドゥブロヴニク)の大評議会が、一つの決まりを定めた。疫病の流行している土地から来た者は、まず町の外の小島ムルカンか、南の町ツァヴタトで一か月とどまり、身を清めてからでなければ、町とその領内に入ってはならない。法として書き残された、世界で最も古い検疫の決まりとされる。

ラグーサは、城壁に囲まれた小さな都市国家だった。耕せる土地はわずかで、富は海の商いから来た。バルカン半島の内陸の鉱山の銀や鉛、塩、毛織物を扱い、東地中海と西ヨーロッパを結ぶ中継の港として栄えた。1358年にヴェネツィアの支配を離れ、ハンガリー王を形の上の主君に仰ぎながら、事実上独立した共和国として振る舞っていた。

シアーネスの英国検疫船HMSラインを描いた19世紀の挿絵
シアーネスの英国検疫船HMSラインを描いた19世紀の挿絵Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

その港に、1348年の1月、黒死病が届いた。船とともに来た病は町の人口の多くを奪い、その後も十数年おきに戻ってきた。商いを止めれば町は飢える。だが船を迎え入れ続ければ、疫病が繰り返し町を襲う。黒死病からおよそ30年後のこの決まりは、そのあいだに折り合いをつける試みだった。

決まりには、細かい定めが付いていた。町の者が、とどめ置かれている者のところへ出向けば、その者も同じく一か月とどめ置かれる。食糧などを届けるには、役人の許しを得て、相手に触れずに渡さなければならない。決まりを破った者には罰金と罰が科された。30日という期間は、のちに「トレンティーノ」と呼ばれた。

コレラ感染を疑われる者を医者が毒殺すると信じる住民の村を隔離する様子(ルーマニア、1911年)
コレラ感染を疑われる者を医者が毒殺すると信じる住民の村を隔離する様子(ルーマニア、1911年)Wikimedia Commons Frédéric de Haenen / After Rook Carnegie · Public domain

当時、病がなぜ広がるのかは、誰にも分からなかった。医者たちは、腐った物から立ちのぼる悪い空気「瘴気」が病を運ぶと考え、星の配置のせいだと説く者もいた。ペストの菌を運ぶネズミとノミが突き止められるのは、500年以上あとの19世紀末、第三次ペスト大流行のときである。それでもラグーサの人びとは、病が人や荷とともにやってくること、しばらく隔てておけば病はやがて現れて消えることを、経験から学んでいた。原因を知らないまま、効く対策を作ったのである。

この考えは、地中海の港町に広がっていった。最大の商業都市ヴェネツィアは、1423年、潟の中の島に、疫病の患者を収容する施設を設けた。のちに、来航した船と人を島に40日とどめる仕組みが整えられた。イタリア語で40日は「クアランタ・ジョルニ」。ここから、英語で検疫を意味する「クアランティン」という言葉が生まれた。なぜ30日が40日に延びたのかははっきりしない。古代の医学で急な病が峠を越すとされた日数や、キリストが荒野で過ごした40日など、聖書の数にちなむとする説もある。

1918年のベル電話会社の広告
1918年のベル電話会社の広告Wikimedia Commons bell system · Public domain

ラグーサ自身も仕組みを整えていった。14世紀の末には疫病を取り締まる役人が置かれ、16世紀の末から17世紀にかけて、町の東の門の外に、隔離のための大きな建物群が造られた。商人と荷は、ここで決められた日数を過ごしてから町に入った。この建物は、いまも海辺に残っている。

検疫は完全ではなかった。ラグーサはその後も何度か疫病に襲われ、多くの死者を出した。1720年のマルセイユのペストのように、検疫の手抜かりから大きな流行が起きた例もある。それでも、港で船を止めて人を隔てるという方法は、ペストのあとも、コレラや黄熱病の時代を通じて、国際的な決まりへと育っていった。ヨーロッパでペストの大流行が姿を消していった理由の一つに、検疫の広がりを挙げる研究者もいる(物語「『疫病と世界史』で読む歴史」)。

マルセイユのペストに関わる図版:Chevalier Roze à la Tourette - 1720
マルセイユのペストWikimedia Commons Michel Serre · Public domain

ラグーサの共和国は、1667年の大地震で町の大半を失いながら立ち直ったが、1808年、ナポレオンの軍によって四百年余りの独立に幕を下ろされた。2020年、新しい感染症が世界に広がり、各国が入国した人に一定の日数の隔離を求めたとき、その言葉の起こりと、ラグーサの古い決まりが、改めて思い起こされた。

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