ハンブルクのコレラ
概要
エルベ川の水をろ過せずに飲んでいた港町で、10週間に8600人。隣のアルトナはろ過していて、通りの向かいで死者が分かれた。コッホが来て「私はヨーロッパにいることを忘れる」と言った。ドイツ最後のコレラ。翌年、ろ過場。
場所
53.55°N 9.99°E · ドイツ
関わった人(1)
ロベルト・コッホAD1843年12月11日–AD1910年5月27日 · 調査本文
19世紀のハンブルクは、ドイツ帝国の中で自分たちの憲法と議会を持つ自由都市であり、大陸でも屈指の港町だった。市を治めていたのは、交易で財を成した商人の家々である。市は飲み水をエルベ川から取っていたが、川の水を沈殿池にしばらく置くだけで、砂でこしてはいなかった。取水口は港と市の下水の出口からそれほど離れておらず、潮の満ち引きによって汚れた水が逆流することもあった。砂でこす浄水場を作ろうという計画は1870年代から何度も議論されたが、費用を嫌う議会によって先送りにされてきた。
隣の町アルトナは、ハンブルクとほとんど一続きの市街でありながら、プロイセン王国に属する別の自治体だった。アルトナもエルベ川の水を飲んでいた。しかも取水口はハンブルクより下流にあり、ハンブルクの下水が流れ込んだ後の水を取っていた。ただし、アルトナはその水を砂の層でこしてから配っていた。

1892年の夏は、雨が少なく暑かった。8月の半ば、港で働く男たちの間に激しい下痢と吐き気で倒れる者が出はじめた。医師たちはジョン・スノウのコレラ地図以来知られるようになったアジア型のコレラを疑ったが、市の当局は公表をためらった。コレラと認めれば港は閉ざされ、船は他の港へ回る。商人の町にとって、それは大きな損失だった。そのあいだに、汚れた水は水道管を通って市内の隅々へ届いていた。
8月の下旬、ベルリンから帝国の衛生の担当として細菌学者のロベルト・コッホが送り込まれた。コッホは8年前にコレラの菌を見つけた人である。彼は港に近い古い市街の、狭い路地に建て込んだ貧しい人々の住まいを見て回り、同行した人々に、諸君、私はここがヨーロッパであることを忘れそうだ、と言ったと伝えられる。コッホの調査を受けて、市はようやくコレラの流行を公にした。

流行はおよそ10週間続いた。発症した人は1万7000人ほど、死者は8600人を超えた。市の人口の百人に一人以上が死んだことになる。病院は満ち、学校や体育館が病室に充てられ、市は水を煮沸するよう呼びかけ、樽に入れた水を街角で配った。
このとき、際立った対照が人々の目にとまった。ハンブルクとアルトナの境目の通りでは、ハンブルクの側の家々で次々に死者が出たのに、向かいのアルトナの側ではほとんど出なかった。空気も、住む人の貧しさも、ほとんど変わらない。違うのは、蛇口から出る水が砂でこされているかどうかだけだった。病は水を通じて菌がうつることで広がる、というコッホの考えを、これほどはっきり示した例は無かった。

コッホの説に最後まで抵抗したのは、ミュンヘンの衛生学者マックス・フォン・ペッテンコーファーだった。彼は、菌だけでは病は起きず、土地や地下水の状態が加わってはじめて流行になると考えていた。この年の10月、ペッテンコーファーはコレラ菌の培養液を自ら飲んでみせた。軽い下痢だけで済み、彼は自分の説の証しだと言った。いまでは、胃の酸が菌の多くを殺したか、もともと抵抗力があったためと考えられている。
流行は港の外にも波紋を広げた。ハンブルクは、ロシアや東ヨーロッパからアメリカへ向かう移民の大きな出口で、その多くはロシアのユダヤ人だった。流行の元を移民に求める声が上がり、ドイツは国境で移民の通過を厳しく制限した。アメリカも、ハンブルクから来る船に長い検疫を課した。ニューヨークに開かれたばかりのエリス島の移民検査場に着く移民の数は、一時落ち込んだ。

翌1893年、ハンブルクはエルベ川の中州に砂でこす浄水場を完成させた。それ以後、市は大きな流行に見舞われていない。この流行は、ドイツで起きた最後の大きなコレラとなった。ペッテンコーファーは1901年に自ら命を絶っている。
歴史家リチャード・エヴァンズは、1987年の著書『ハンブルクの死』で、この流行を商人の自治の行き詰まりとして描いた。安い税と小さな市政を誇った商人たちは、浄水場の費用を惜しみ、貧しい地区の住まいに手を入れることもなかった。死者は港の労働者や貧しい家に偏った。コレラのあと、市の議会では選挙の仕組みや衛生の行政が問い直され、帝国の側が市に口を出す余地も広がった。アルトナは1937年の法律でハンブルクに編入され、かつての境目は、いまは市の中のありふれた通りの一つになっている。