能登半島地震
概要
元日の夕方、マグニチュード7.6。輪島の朝市が焼け、海岸が4メートル隆起して港が干上がった。半島の道が寸断され、孤立した集落が多かった。高齢化した土地の復興の難しさが問われた。
場所
37.39°N 136.90°E · 石川県
本文
2024年1月1日午後4時10分、石川県の能登半島の先端の地下で、マグニチュード7.6の地震が起きた。震源の深さは16キロほど。志賀町と輪島市で最大震度7を観測し、半島のほぼ全域が震度6弱以上の揺れに見舞われた。家族が帰省して集まる元日の夕方だった。テレビとスマートフォンには緊急地震速報が流れ、気象庁は能登の沿岸に大津波警報を出した。大津波警報は、2011年3月の震災(東日本大震災と福島第一原発事故)以来のことだった。
能登半島の北東部では、2020年の終わりから群発地震が続いていた。地下の深いところから水などの流体が上がってきて、断層を滑りやすくしているという見方が有力だった。2023年5月にも珠洲市で震度6強の地震があった。元日の地震では、半島の北の海底から陸の下へ傾いて延びる逆断層が、長さ150キロほどにわたって動いたとみられる。日本海の沿岸には津波が押し寄せ、珠洲市などでは、陸を駆け上がった高さが4メートルを超えた所があった。

輪島市の中心部では、観光名所の朝市通りの一帯から火が出た。断水で消火栓が使えず、崩れた家が道をふさぎ、火はひと晩燃え続けた。およそ240棟、5万平方メートル近くが焼けた。同じ市内では7階建てのビルが根元から倒れ、隣の家を押しつぶした。輪島塗の工房や店も多くが壊れた。珠洲市でも古い木造の家が多く倒れ、地区によっては大半の家が全壊に近い被害を受けた。
半島の北の海岸は、広い範囲で地面が持ち上がった。輪島市の西部では隆起が4メートルに達し、鹿磯漁港などでは海底が干上がって、港が陸になった。船は動けなくなり、海岸線は場所によって200メートル以上も沖へ移った。能登の海岸には、こうした隆起が過去に繰り返されてできた階段状の段丘が何段も残っている。今回の隆起は、その新しい一段を目の前で作ったことになる。

半島は三方を海に囲まれ、外へつながる道は少ない。幹線の道路があちこちで崩れ、山あいの集落は孤立した。孤立した集落は、多いときで20を超える地区、3000人以上にのぼった。半島の西岸にある志賀原子力発電所は、運転を止めていたため大事には至らなかったが、変圧器が壊れて油が漏れ、外部から電気を受ける回線の一部が使えなくなった。道が寸断され、家屋が倒れた今回の様子は、原発の事故が起きたときに住民が逃げられるのかという問いを改めて投げかけた。半島の先端の珠洲市には、かつて原発の建設計画があったが、住民の反対で2003年に凍結されていた。
救援は、道を切り開きながら進むほかなく、ヘリコプターと船に頼る場面も多かった。発生翌日の自衛隊の投入が1000人ほどにとどまったことには、阪神・淡路大震災や熊本地震に比べて少なすぎるという批判も出た。石川県は、道路の渋滞が救援を妨げるとして、個人のボランティアや一般の車に、しばらく現地に来ないよう呼びかけた。

水道の被害は深刻で、輪島市や珠洲市では断水が数か月続いた。避難所のトイレは使えず、寒さと疲れの中で体を壊す人が相次いだ。地震のあとの避難生活で亡くなる「災害関連死」と認められた人は、時がたつにつれて増え、2025年には、建物の倒壊などで亡くなった直接の死者228人を上回った。熊本地震でも同じことが起きており、避難所の環境が命に関わるという教訓は、生かしきれなかった。
翌1月2日の夕方、東京の羽田空港で、能登への救援物資を運ぼうとしていた海上保安庁の航空機と、着陸した日本航空の旅客機が滑走路上で衝突した。海上保安庁の機の乗員6人のうち5人が死亡し、炎に包まれた旅客機の乗客乗員379人は全員が脱出した。

9月21日、復旧の途中の奥能登を記録的な豪雨が襲った。地震で緩んだ山が崩れ、川があふれて、仮設住宅も水につかり、十数人が亡くなった。「なぜ能登ばかり」という声が上がった。
被災地の多くは、地震の前から人口の減少と高齢化が進んでいた。輪島市や珠洲市では、65歳以上の人が人口の半分近くを占めていた。地震のあと、若い世代を中心に半島の外へ移る人が相次ぎ、人口は1年で目に見えて減った。輪島の朝市は、金沢などの仮の場所で出張の市を開いて続けた。町を元どおりに戻すのか、人が減っていくことを前提に暮らしを作り直すのか。能登の復興は、これまでの震災では正面から問われなかった問いを、突きつけている。