アンコールの隆盛
概要
クメール王朝の都。同時代の世界で最大級の都市で、精緻な水利で支えられていた。
場所
13.41°N 103.87°E · カンボジア
関わった人(1)
スーリヤヴァルマン2世?–AD1150年頃 · アンコール・ワットを建てた王本文
9世紀のはじめ、ジャヤーヴァルマン2世がカンボジアの諸勢力をまとめ、自らを世界を統べる王と宣言した。それから600年あまり、クメールの王たちはトンレサップ湖の北岸に都を置き、インドシナ半島の大部分に力を及ぼした(クメール帝国)。王はヒンドゥーの神々、とくにシヴァやヴィシュヌと結びつけられ、王ごとに国家の中心となる寺院を築くのが習わしだった。12世紀前半、その伝統の頂点に立つのがスーリヤヴァルマン2世である。
スーリヤヴァルマン2世は、1113年ごろ、王位を争う者を倒して即位した。西のチャオプラヤ川流域から東のチャンパーまで兵を出し、中国の宋にも使いを送っている。そして都の南に、ヴィシュヌに捧げる巨大な寺院を建てた。これがアンコール・ワットである。周りを幅190メートルの堀が囲み、中央の五つの塔は、神々の住む世界の中心、メール山をかたどっている。回廊の壁には、インドの叙事詩の場面や、乳海をかき混ぜる神話、そして王自身が家臣を従えて行進する姿が、800メートルにわたって浮き彫りにされている。完成まで30年以上かかったとみられ、王の存命中には仕上がらなかった部分もある。

アンコール・ワットは、多くの寺院と違って西を向いている。西は死者の方角ともされることから、王の死後の霊廟を兼ねていたという説があるが、ヴィシュヌが西の方位と結びつくからとみる説もあり、決着していない。
この時代のアンコールが際立つのは、寺院だけではない。2010年代に、航空機からのレーザー測量で森の下の地形が細かく調べられ、寺院の周りに道路、水路、池、住居の土台が碁盤の目のように広がっていたことが明らかになった。人の住む範囲は郊外まで含めて1000平方キロに及んだとされ、産業化以前の都市としては世界でも最大級の広がりを持っていた。人口は数十万人に達したとみる推計もあるが、幅が大きい。

都市を支えたのが、水の管理だった。王たちは「バライ」と呼ばれる長方形の巨大な貯水池を次々に造った。最大の西バライは、東西およそ8キロ、南北およそ2キロある。雨季の大量の水を溜め、水路網で流れを整えることで、洪水を防ぎ、乾季にも田に水を回せたと考えられてきた。ただ、バライの水がどこまで実際の灌漑に使われたのか、むしろ宗教的な意味の強い施設だったのかについては、研究者のあいだで議論が続いている。
スーリヤヴァルマン2世の死後、王国は内紛とチャンパーの攻撃に揺れ、1177年には都が一時チャンパー軍に占領された。これを取り返して即位したのがジャヤーヴァルマン7世である。彼は仏教を篤く信じ、新しい都アンコール・トムと、無数の顔の塔が並ぶバイヨン寺院を築いた(ジャヤヴァルマン7世とアンコール・トム)。王国の領域が最も広がったのはこの時代で、各地を結ぶ道と、旅人のための宿駅や施療院も整えられた。アンコール・ワットは後に上座部仏教の寺院となり、今日まで祈りの場として使われ続けている。

1296年に元の使節に従ってアンコールを訪れた周達観は、王の行列の華やかさや、市場で女性が商いをする様子、人びとの暮らしを書き残した。都はなお繁栄していたことがうかがえる。
しかし14世紀に入ると、アンコールは少しずつ力を失っていく。年輪の分析からは、14世紀から15世紀にかけて、長い干ばつと激しい豪雨が交互に襲ったことが分かっている。水路には土砂がたまり、壊れた設備を直す力が追いつかなくなったとみられる。西からはアユタヤ朝が勢いを増し(アユタヤ朝の成立)、15世紀には王都は南のプノンペン方面へ移った。森に覆われた寺院は、19世紀にフランスの博物学者が紹介して、ヨーロッパに広く知られるようになる。いま、アンコール・ワットはカンボジアの国旗に描かれ、国の象徴になっている。