できごと

イェリコの壁

Walls of Jericho
約1万年前
年に諸説あり重要度 5
約1万年前イェリコ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている約1万年前の版図を描いています。

概要

死海の北の泉のほとりで、農耕が始まってすぐ、人が石の壁と塔を建てた。高さ8メートルの塔。何を防いだかは分からない。洪水か、人か。ヨシュアの角笛より6000年古い。世界で最も古い街、と言われる街の一つ。

場所

イェリコ
31.87°N 35.44°E · パレスチナ

本文

死海の北、ヨルダン川の西岸に、海面より250メートルほど低い土地がある。そこに、絶えることなく水が湧き出る泉がある。アイン・エッ・スルタン(スルタンの泉)と呼ばれるこの泉のほとりで、約1万年前、人々は石を積んで壁を巡らし、高さ8メートルを超える石の塔を建てた。農耕が始まって間もないころのことである。この遺跡が、イェリコ(エリコ)の古い町の跡、テル・エッ・スルタンである。

テルとは、同じ場所に何千年も人が住み続け、崩れた家の上に新しい家を建てることを繰り返した結果、小高い丘になった遺跡のことをいう。イェリコのテルも、そうして積み重なった丘である。この丘は、聖書に出てくるイェリコの町として、早くから注目されていた。20世紀の初めにはドイツとオーストリアの調査隊が、1930年代にはイギリスのジョン・ガースタングが発掘し、1952年から58年にかけて、イギリスの考古学者キャスリーン・ケニヨンが、丘の深くまで掘り下げた。

テル・エッ=スルタン(古代イェリコの遺跡)
テル・エッ=スルタン(古代イェリコの遺跡)Wikimedia Commons Fullo88 at Italian Wikipedia · Public domain

ケニヨンの発掘は、驚くほど古い層にたどり着いた。最も下には、ナトゥーフ文化と呼ばれる人々の痕跡があった。1万2000年ほど前、この地方で、狩りと野生の穀物の採集をしながら、ひとところに住み始めていた人々である。その上に、土器をまだ持たない新石器時代の層が重なっていた。考古学者はこの時代を先土器新石器時代Aと呼ぶ。人々は小麦や大麦を栽培し始め、泥レンガで丸い家を建てて暮らしていた。農耕の始まりの、まさに最初期の姿である。

この層で見つかったのが、石の壁と塔だった。壁は町の西側で確かめられ、厚さは1.8メートルほど、残っている高さは3.6メートルほどある。壁の外側には、岩を掘り込んだ溝が巡らされていた。そして壁の内側に、石を積んだ円い塔が立っていた。塔の底の直径は9メートルほど、残っている高さは8メートル余り。塔の中には、石の階段が22段、上まで通じている。放射性炭素による年代測定では、塔は紀元前8000年ごろ、いまから1万年あまり前に建てられたと考えられている。人の手で造られた石造の建物としては、世界で最も古いものの一つである。

テル・エッ・スルタン(エリコ)で発掘された住居の基礎
テル・エッ・スルタン(エリコ)で発掘された住居の基礎Wikimedia Commons A. Sobkowski · Public domain

何のために、これほどの壁と塔を築いたのか。ケニヨンは、外敵から町を守るための防壁と考えた。豊かな泉と畑を持つ町は、周りの人々に狙われたはずだ、というのである。しかし、この時代に大規模な戦争があったことを示す証拠は乏しい。1980年代には、イスラエルの考古学者オフェル・バル=ヨセフが、壁は人ではなく、雨季に谷から押し寄せる洪水や土砂から町を守るためのものだった、と唱えた。塔についても、見張り台ではなく、共同の儀式の場や、町の人々の結束を示す記念の建物だったとする説がある。2011年には、夏至の日の夕方、近くの山の影が塔に向かって伸びることを指摘し、塔は太陽の動きと結びついた建物だったと考える研究も発表された。どれが正しいかは、まだ決着していない。

町の人口も分からない。かつては2000人から3000人とも言われたが、もっと少なく、数百人ほどだったとする見方もある。いずれにせよ、狩りと採集で暮らしていた人々が、農耕を始めて間もなく、大勢で力を合わせて石を運び、何年もかけて壁と塔を築いたことは確かである。それを指揮し、人を動かす仕組みが、すでにあったことになる。

ウォレン探検の数年後に描かれた、テル・エッ=スルタン周辺の地図(パレスチナ探検基金の測量)
ウォレン探検の数年後に描かれた、テル・エッ=スルタン周辺の地図(パレスチナ探検基金の測量)Wikimedia Commons Public domain

イェリコだけが特別だったわけではない。ほぼ同じころ、いまのトルコ南東部では、狩猟採集民が巨大な石柱を立てたギョベクリ・テペが造られていた。少しのちには、アナトリアに数千人が住むチャタル・ヒュユクが現れる。農耕と定住、そして共同で大きなものを造る営みは、西アジアの各地で、ほぼ同時に芽生えていた。イェリコを「世界最古の都市」と呼ぶことがあるが、何をもって都市とするかによって答えは変わる。大きな村と呼ぶ研究者もいる。

続く先土器新石器時代Bの層からは、さらに不思議なものが見つかった。人の頭蓋骨に漆喰を塗って顔の肉づきを再現し、目の部分に貝殻をはめ込んだものである。家の床下に葬られた先祖の頭を掘り出し、顔を作り直して家の中に飾ったのだろうと考えられている。死者と生者が、同じ家の中で暮らしていた。

イェリコの塔
イェリコの塔Wikimedia Commons Reinhard Dietrich · Public domain

イェリコの名を世界に知らしめたのは、旧約聖書の『ヨシュア記』である。エジプトを出たイスラエルの民が約束の地に入るとき、最初に立ちはだかったのがイェリコの町だった。神の命に従って、祭司たちが角笛を吹きながら7日間町の周りを回り、7日目に民が一斉に鬨の声を上げると、城壁が崩れ落ちた、と聖書は語る。

1930年代に発掘したガースタングは、崩れた城壁の跡を見つけ、これこそヨシュアの時代、紀元前1400年ごろにイスラエルの民が崩した壁だと発表した。しかしケニヨンの調査は、その壁がもっと古い時代のものであることを示した。ケニヨンによれば、イェリコの町は紀元前1550年ごろに破壊されており、ヨシュアの時代とされるころには、町はほとんど人の住まない状態だった。聖書の物語と考古学の結果をどう結びつけるかは、その後も論争が続いている。ケニヨンの年代に異を唱える研究者もいるが、多くの考古学者は、ヨシュア記の物語を史実の記録としてそのまま読むことには慎重である。いずれにせよ、ヨシュアの角笛の時代は、石の塔が築かれた時代より6000年以上も後のことになる。

その後もイェリコには人が住み続けた。ナツメヤシとバルサムの産地として知られ、ヘロデ大王はここに冬の宮殿を建てた。新約聖書では、イエスがこの町で、取税人ザアカイの家に泊まったと語られる。

いまのイェリコは、パレスチナの町である。1993年のオスロ合意に基づき、翌1994年、ガザとともに最初にパレスチナの自治が始まった町の一つになった。2023年、テル・エッ・スルタンはユネスコの世界遺産に登録された。丘の上に立つと、ケニヨンが掘り下げた深い溝の底に、1万年前の石の塔が、いまも姿を見せている。

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