チャン・チャンの造営
概要
雨のほとんど降らない海岸に、日干し煉瓦で20平方キロの都市を建てた。谷と谷を運河でつないで水を配る。
場所
-8.11°N -79.07°E · ペルー・ラ・リベルタ県
本文
ペルーの北部海岸は、世界でも指折りの乾いた土地である。沖を流れる冷たい海流のせいで雨雲が育たず、年の降水量は数ミリしかない。それでも、アンデスの山から太平洋へ流れ下る川が、いくつもの谷を作っている。その谷に水を引けば、砂漠は畑に変わる。紀元前後にはここでモチェ文化が栄え、大きな神殿と精巧な土器を残した。
そのモチェの故地、いまのトルヒーヨの近くに、10世紀ごろからチムーの王国(チムー王国)が育った。16世紀にスペイン人が書き留めた伝承では、タイカナモという男が筏に乗って海から現れ、王朝を開いたという。都のチャン・チャンは、12世紀ごろから本格的に造られ始めたと考えられている。

都は広い。周辺の地区を含めると20平方キロに及び、アメリカ大陸で先スペイン期最大の日干し煉瓦の都市とされる。材料は土と水と藁を練って干した煉瓦である。雨が降らないから、それで保つ。住んでいた人の数は、数万人と推計されている。
町の中心には、高い壁で囲まれた巨大な区画が十ほど並ぶ。シウダデラと呼ばれ、壁の高さは9メートル前後に達するものもある。中には広場と、入り組んだ通路、コの字形の小部屋、そして膨大な数の倉庫が並び、奥には死者を葬る台状の建物がある。壁には魚や海鳥、波、網目の模様が浮き彫りにされている。

一つの区画が一代の王のものだったと考えられている。王が生きているあいだは宮殿と役所であり、死ぬと墓になった。葬られた王のそばからは、多くの若い女性の遺骨と豪華な副葬品が見つかっている。区画は閉ざされ、次の王は新しい区画を建てた。
死んだ王の財産は、そのまま王のものとして残る。だから新しい王は、自分の富を一から集め直さなければならない。この「分割相続」の仕組みが、王国を外へ広げ続ける動機になった、とする説がある。同じ仕組みはインカにもあった。死んだ王はミイラとして生き続け、その一族が財産を守った(インカ帝国の拡大)。
チャン・チャンの周りには、庶民の住まいと職人の工房が広がっていた。とくに金属の細工師は名高く、金や銀を薄く打ち延ばして器や飾りを作った。王国は北はエクアドルとの境近くまで、南はリマの近くまで、海岸に沿って千キロほどの谷々を支配したとされる。
チムーの土器は、黒く磨き上げた器が特徴で、型を使って大量に作られた。モチェの土器が一点ずつ手の込んだ絵を描いたのに比べると、同じ形の器が並ぶ。王国の工房が、決まった品を数多く作って配る仕組みを持っていたことをうかがわせる。
水は、山から引いた運河で配った。隣の谷から水を回すため、数十キロに及ぶ長い水路も掘られたが、実際に水が流れたかどうかは議論がある。町の中では、地下水の高さまで地面を掘り下げた畑や、階段で降りていく大きな井戸も使われた。ときおり襲うエル・ニーニョの豪雨は、水路と畑を押し流し、王国はそのたびに作り直しを迫られた。
15世紀の後半、南から伸びてきたインカに、チムーは屈した(インカによるチムー併合)。最後の王はクスコへ連れ去られ、細工師たちも都へ移されて、インカの王のために働いた。インカは水路を断つと脅して降伏させた、とも伝えられる。

スペイン人が来ると、チャン・チャンの墓は金銀の出る鉱山のように扱われた。16世紀には、王の墓の台を掘り崩すために人を雇い、出た財宝の取り分を役所に届け出る、という商売まで成り立っていたとされる。いま見られる区画の多くが荒れているのは、そのためでもある。
チャン・チャンは1986年に世界遺産になったが、同じ年に危機遺産にも入れられた。雨に弱い日干し煉瓦は、エル・ニーニョのたびに削られ、地下水の上昇で根元から崩れていく。千年近く前の王たちが乾いた土地に賭けた都は、いま気候の揺れにさらされている。