モンテ・アルバンのサポテカ
概要
山の頂を平らに削って広場を作った。メソアメリカで最も早い文字と暦の記録がここに残る。征服した町の名を刻んだ石板が並ぶ。
場所
17.04°N -96.77°E · メキシコ・オアハカ州
本文
メキシコ南部のオアハカの谷は、三つの谷がY字形に交わった形をしている。その交わるあたりの真ん中に、谷底から400メートルほど突き出た山がある。
紀元前500年ごろ、人々はこの山の頂を削って平らにしはじめた。水も畑も谷底にあり、山の上で暮らすのは不便だった。それでも、三つの谷のどこからも見え、どこへも目が届く場所を選んだ。谷にあった村々の有力者が寄り集まって、新しい中心をここに作ったと考えられている。それまで谷で最も大きな村だったサン・ホセ・モゴテは、モンテ・アルバンができると急に小さくなった。人々がこぞって山上へ移ったのだろうと見られている。

頂には南北に長い大広場が作られ、その周りに神殿の基壇と宮殿、球技場が並んだ。サポテカの人々の都になり、谷全体を治める中心になった。その姿が最も大きくなったのは紀元後の数百年で、人口は1万5千から2万5千ほどと見積もられている。斜面には段々を作って家を並べた。
初期の建物の壁に、300枚を超える石板がはめ込まれていた。裸の男たちが、目を閉じ、口を開け、手足をねじった姿で刻まれている。体の線が踊っているように見えるので、かつては「踊る人」と呼ばれた。いまは、殺された捕虜、あるいは辱められた敵の姿と考えられている。性器を切られたように刻まれた像もある。都の始まりから、力の誇示がその中心にあった。

山の上には川も泉も無く、水は雨を溜めるか、谷から運び上げるしかなかった。有力な家は、住まいの床下に石組みの墓を設け、壁に絵を描き、雨と稲妻の神コシーホなど神々の姿をかたどった土器の壺を供えた。こうした葬送の壺は、サポテカの焼き物を代表するものになっている。
大広場の南寄りに、矢じりのような形をした変わった建物がある。その壁に、40ほどの石板が並ぶ。それぞれに、山や丘を表す記号と、地名と思われる文字と、逆さまになった人の頭が刻まれている。考古学者のアルフォンソ・カソは、これをモンテ・アルバンが征服した町の一覧と読んだ。谷の外、遠くの土地の名まで含まれているとされる。この建物はほかの建物と向きがずれていて、星の観測に使われたという説もある。
石板の文字は、メソアメリカで最も早い文字の記録の一つになる。数を表す棒と点、260日の暦の日付が刻まれている。この暦と数の書き方は、のちにマヤの長期暦を使った人々や、メキシコ高原の諸文化と共通する。誰が最初に始めたのかについては議論があり、オルメカ文明との関係も含めて決着していない。サポテカの文字はまだ十分に読めていない。
テオティワカンの隆盛の時代、メキシコ高原の大都市テオティワカンとは、使節を送り合う間柄だった。テオティワカンの中にはオアハカから来た人々の住む区画があり、モンテ・アルバンの石碑には、テオティワカンの装いの人物が訪れる場面が刻まれている。戦った跡よりも、外交の跡が目立つ。
700年から800年ごろにかけて、モンテ・アルバンの人口は減り、大きな建物は造られなくなった。なぜ捨てられたのかは分かっていない。テオティワカンの衰退で遠距離の関係が崩れた、谷の各地の町が力をつけて山上の都に従わなくなった、などの説がある。権力は谷のあちこちの町に分かれ、ミトラなどの都市が栄えた。モンテ・アルバンの千年あまりは、谷を一つにまとめる都があった時代として、いまに残っている。

山上の都はその後も聖地として使われ、のちにミシュテカの人々が古い墓を再利用した。1932年、カソが第7号墓から金や翡翠の副葬品を大量に掘り出し、世界に知られることになる。
サポテカの人々は、いまもオアハカに暮らし、言葉を話している。19世紀にメキシコの大統領となったベニート・フアレスも、オアハカの山村に生まれたサポテカの人だった。