できごと

ハンムラビ法典

Code of Hammurabi
BC1754年頃
年に諸説あり重要度 5
ハンムラビ法典に関わる図版:P1050763 Louvre code Hammurabi face rwk
P1050763 Louvre code Hammurabi face rwk Wikimedia Commons Mbzt · CC BY 3.0

概要

282条を石碑に刻んで公開した。刑罰は身分によって差があり、目には目をの原則で知られる。

場所

バビロン
32.54°N 44.42°E · イラク・バービル県

関わった人(1)

ハンムラビBC1810年頃–BC1750年頃 · 制定

本文

「目には目を」で知られる。だが条文を読むと、同じ害で報いる原則は誰にでも等しく当てはまるわけではない。被害者と加害者の身分によって、罰も賠償も変わる。そして、この法典の本当の新しさは、中身よりも、それを石に刻んで人目にさらしたことにあった。

ハンムラビはメソポタミアの都市バビロンの王で、在位は紀元前1792年頃から前1750年頃とされる(年代には別の数え方もある)。即位したころのバビロンは、周りに並ぶ強国の一つにすぎなかった。南にはラルサ、北西にはマリ、東にはエラムがあり、互いに同盟と裏切りを繰り返していた。ハンムラビは30年あまりをかけてそれらを一つずつ倒し、治世の終わりには南北メソポタミアのほぼ全体を従えた。法典の碑が作られたのは、その統一を成し遂げた晩年のことである。

王と太陽神シャマシュとの王権叙任
王と太陽神シャマシュとの王権叙任Wikimedia Commons sailko · CC BY 2.5

碑は黒い硬い石で、高さは2メートルを超える。上の部分には浮き彫りがあり、玉座に座る太陽神シャマシュの前に、王が手を口元に当てて立っている。シャマシュは正義をつかさどる神で、王はその神から統治を任された者として描かれる。浮き彫りの下には、アッカド語の楔形文字がびっしりと刻まれている。文字は楔形文字の成立で、当時のメソポタミアの共通の書き言葉だった。

本文は、前書きと条文と結びの三つから成る。前書きでは、王がどの都市の神殿をどう手厚く扱ったかが長々と並ぶ。結びでは、この法は「強い者が弱い者を虐げないように、孤児と寡婦に正義を与えるために」定めたと述べる。そして、訴えたいことのある虐げられた者は、この碑の前に来て、刻まれた言葉を読んでもらい、自分の件を知れ、と書いている。文字を読める人は限られていた。それでも、王が自分の裁きの基準を公の場に掲げた形が、ここに残っている。

スサのアクロポリスで行われたジャック・ド・モルガンの発掘現場
スサのアクロポリスで行われたジャック・ド・モルガンの発掘現場Wikimedia Commons Unknown photographer - Tirage sur papier baryté d'un contretype réalisé par C. Larrieu à partir d'un négatif sur verre ( · Public domain

条文は現代の研究者が数えて282とされる。番号は碑に書かれたものではなく、後から振られた。内容は、偽りの告発、盗み、売買と貸し借り、畑と水路、結婚と相続、養子、医者や大工の責任、家畜の賃借、賃金など、暮らしのほぼ全体にわたる。抽象的な原則ではなく、「もしある人が〜したなら、〜とする」という具体的な場合の積み重ねで書かれている。

たとえば、人を殺人で告発して証明できなければ、告発した側が殺される。これが第1条である。大工が建てた家が崩れて家の主が死ねば、大工が殺される。死んだのが家の主の息子なら、大工の息子が殺される。医者が手術で自由人を死なせれば、医者の手が切り落とされる。罪の判定に、川に飛び込ませて沈むかどうかで決める神の裁きが使われる条もある。

王都とアクロポリスの遺丘
王都とアクロポリスの遺丘Wikimedia Commons Pentocelo · Public domain

身分の差ははっきりしている。社会は大きく、自由人、それより下の層(ムシュケーヌムと呼ばれる)、奴隷の三つに分けて書かれている。自由人が自由人の目を潰せば、その目を潰される。だが下の層の者の目を潰したなら銀で払えばよく、奴隷の目なら、その奴隷の値段の半分を払えばよい。「目には目を」は、同じ身分のあいだでの話だった。旧約聖書の出エジプト記にもよく似た言い回しがあり、この地域に広く共有された考え方だったことが分かる。

この法典は最古の法ではない。300年ほど古いウル・ナンム法典が知られており、ほかにもいくつかの都市の法が残っている。ウル・ナンム法典は、傷害に対して主に銀による賠償を定めていた。ハンムラビ法典では、それが身体への刑に置き換わっている条が多い。時代が下って刑が重くなった、という順序になるのは意外に思える。遊牧に由来する同害報復の考えが入ったとする説などがあるが、はっきりしない。

ウル・ナンム法典に関わる図版:Ur Nammu code Istanbul
ウル・ナンム法典Wikimedia Commons Istanbul Archaeology Museums · CC0

この法典が実際の裁判で使われたかどうかは、よく分かっていない。当時の裁判の記録は粘土板で数多く残っているが、法典の条文を引いて判決を下した例はほとんど見つかっていない。そのため、いま多くの研究者は、これを裁判官が従うべき法律というより、王が「正義の王」であることを神と民と後世に示すための記念碑、あるいは模範的な判断を集めた書と見ている。ただし文章としての評判は高く、後の時代にも学校で写され続け、千年以上のちの粘土板にも写本が見つかっている。

碑のその後の運命も劇的である。紀元前12世紀、東の隣国エラムの王シュトルク・ナフンテがメソポタミアに攻め込み、この碑を戦利品として自分の都スーサへ持ち去った。碑の下のほうには、条文の何列かが削り取られた跡がある。そこに自分の名を刻ませるつもりだったとされるが、新しい文字は入れられないまま残った。消えた条文は、ほかの粘土板の写本から一部が補われている。

ハンムラビ法典の石碑に刻まれた浮彫(ルーヴル美術館)
ハンムラビ法典の石碑に刻まれた浮彫(ルーヴル美術館)Wikimedia Commons Mbzt · CC BY 3.0

それから三千年あまりのち、1901年の暮れから翌年にかけて、フランスの調査団がスーサの遺跡で三つに割れたこの碑を掘り出した。碑はパリに運ばれ、いまはルーヴル美術館に収められている。古代の法の実物がまとまった形で残った例として、世界で最もよく知られた石の一つになった。

ハンムラビ法典が後世に残したのは、刑の重さではなく、支配者が規則を書き、それを人の目に見える場所に掲げるという形のほうだろう。のちのローマの十二表法も、広場に掲げられた法だった。誰がどんな罰を受けるかが、王の気分ではなく、刻まれた文字で決まる。その文字が身分によって違う罰を定めていたとしても、書かれて公開されたことで、人々はそれを知り、比べ、問うことができるようになった。

動画(1)

004 古バビロニア・インドヨーロッパ系民族 世界史20話プロジェクト第01話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第4講「古バビロニア・インドヨーロッパ系民族」

出典(4)

ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之 訳) 『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』第6章 神話による社会の拡大
デヴィッド・グレーバー、デヴィッド・ウェングロウ(酒井隆史 訳) 『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』第10章(国家の三つの原理)
ジェームズ・C・スコット(立木勝 訳) 『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』第5章(国家の崩壊は、暗黒時代ではない)
ジャレド・ダイアモンド(倉骨彰 訳) 『昨日までの世界 文明の源流と人類の未来』第2部(争いをどう収めるか)

同じ時代のできごと

この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
BC1754年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →