ガリレオの異端審問

概要
観測から出た結論を、教義の名で撤回させられた。それでも地球は動く、と伝えられる。
場所
41.89°N 12.49°E · イタリア・ラツィオ州
関わった人(1)
ガリレオ・ガリレイAD1564年2月15日–AD1642年1月8日 · 被告本文
16世紀の半ば、ポーランドのコペルニクスは、地球が太陽の周りを回っているという説を本にした。だが、それから半世紀以上たっても、多くの学者は、宇宙の中心で動かない地球の周りを太陽や星が回っているという古い考えを守っていた。動く地球を示す確かな証拠は、まだ無かった。教会にとっても、聖書には太陽が動くと読める箇所があり、地球が動くという説は信仰と食い違う恐れがあった。1600年には、無限の宇宙を説いたジョルダーノ・ブルーノがローマで火刑にされている(ジョルダーノ・ブルーノの火刑)。
1609年、イタリアのパドヴァ大学で数学を教えていたガリレオ・ガリレイは、オランダで望遠鏡が発明されたと聞き、自分で作ってみた。倍率を上げた望遠鏡を夜空に向けると、月の表面には山と谷があり、木星の周りには四つの小さな星が回っていた。天の世界は完全で傷が無い、という古い考えは崩れた。地球以外のものの周りを回る天体があることも分かった。翌年、ガリレオはこれらの発見を本にして出版した(『星界の報告』)。

ガリレオはさらに、金星が月のように満ち欠けし、その見かけの大きさが変わることを見つけた。これは、金星が太陽の周りを回っていると考えなければ説明がつかない。ガリレオは、コペルニクスの説が正しいと確信し、それを公然と唱えるようになった。
教会の内部には、これを危ぶむ声が高まった。1616年、ローマの教会の当局は、コペルニクスの本を、訂正されるまで読んではならない書物とした。ガリレオは枢機卿ベラルミーノに呼ばれ、地動説を事実として信じたり、擁護したりしてはならない、と言い渡された。

1623年、ガリレオと親しかった枢機卿バルベリーニが教皇に選ばれ、ウルバヌス8世となった。新しい教皇は、地動説を仮説として論じるのであればかまわない、と考えていた。ガリレオは長い年月をかけて一冊の本を書いた。1632年に出た『天文対話』である。
本は、学者の使うラテン語ではなく、誰でも読めるイタリア語で書かれていた。三人の人物が四日にわたって語り合う対話の形をとり、地動説を唱える学者、中立の立場の知識人、そして古い天動説を守るシンプリチオという人物が登場する。シンプリチオという名は、古代の学者の名にちなむとされるが、イタリア語では「単純な人」という響きを持つ。本の中で地動説は明らかに優勢に描かれ、最後に、神は全能だから人の考えでは宇宙の仕組みは決められない、という教皇自身の主張が、シンプリチオの口から語られていた。

教皇は、自分を愚かな人物に重ねて笑いものにされたと受け止めたとも言われる。本は発売を止められ、69歳のガリレオはローマの異端審問所に呼び出された。1633年の春から取り調べが続き、ガリレオは、1616年の命令に背いて地動説を擁護した罪に問われた。6月22日、ガリレオは異端の強い疑いがあるとして有罪とされた。ひざまずいて地動説を捨てると誓わされ、本は禁じられた。
ガリレオは、地動説を捨てると誓ったあと、それでも地球は動く、とつぶやいたという話がある。だが、この話が書物に現れるのは、裁判から100年以上たった18世紀の半ばのことで、後に作られた話と考えられている。

ガリレオは牢には入れられず、フィレンツェ近くのアルチェトリの別荘で、残りの生涯を軟禁されて過ごした。それでも研究はやめなかった。物が落ちる速さや、材料の強さを論じた『新科学対話』を書き上げ、原稿は国外に持ち出されて1638年にオランダで出版された。そのころガリレオは両目の光を失っていた。1642年1月、77歳で死んだ。同じ年の暮れ、イングランドでアイザック・ニュートンが生まれている。
ガリレオが確かめられなかった地球の動きは、その後の天文学で示されていった。ヨハネス・ケプラーの法則とニュートンの力学は、惑星が太陽の周りを回る仕組みを説明した。教会はしだいに態度を和らげ、19世紀には地動説を説く本の出版を認めた。1992年、教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオに対する裁判は誤りだったと認める演説をした。裁判から359年後のことである。