商鞅の変法
概要
身分ではなく功で報い、密告を奨励し、法を曲げなかった。秦が抜きん出る土台になる。
場所
34.33°N 108.71°E · 中国・陝西省
関わった人(1)
商鞅BC390年頃–BC338年 · 当人本文
紀元前5世紀の終わり、大国の晋が三つに割れる三家分晋(戦国時代の始まり)が起き、中国は七つの大国が生き残りをかけて争う戦国時代に入った。各国は、生まれや家柄にこだわらず、国を強くする策を持つ人物を求めた。西の辺境にあった秦は、中原の国々から文化の遅れた国と見下されていた。紀元前361年に即位した孝公は、国中に布告を出し、秦を強くする策を献じる者には高い位と領地を与えると呼びかけた。
この呼びかけに応じたのが、衛の国の公族の出身の商鞅である。もとの名を公孫鞅、または衛鞅という。若いころから刑名の学、つまり法と刑罰によって国を治める学問を好み、魏の宰相に仕えていた。宰相は死の床で、魏の王に、この男を用いるか、用いないなら殺して国外に出すなと言い残したが、王は取り合わなかったと『史記』は伝える。

秦に入った衛鞅は、孝公に何度か目通りした。最初に古の聖王の道を説くと、孝公は居眠りをしたという。最後に、国を早く強くする覇者の道を説くと、孝公は膝を乗り出して何日も聞き入った。古い法を変えることには重臣の反対があったが、孝公は衛鞅の意見を取った。民とは成功を共に楽しむことはできても、始めることを相談することはできない、と衛鞅は言ったと伝えられる。
紀元前356年、最初の改革が行われた。民を5戸、10戸の組に分け、組の中で罪を犯した者がいれば互いに告発させた。告発しなければ組の全員を罰し、告発した者には敵の首を取ったのと同じ褒美を与えた。成人した男子が二人以上いる家は分家させ、従わなければ税を倍にした。働き手の単位を小さくし、耕す土地を広げるためである。
最も大きな変化は、身分の与え方にあった。戦場で敵の首を取った数に応じて爵位を与え、田畑や家、召し使いを持てる量を爵位で決めた。王の一族であっても、軍功が無ければ一族の名簿から外した。農業と機織りに励んで多くの穀物や布を納めた者は労役を免じ、商売に走って貧しくなった者は奴婢とした。秦の人々にとって、出世の道は戦場と畑にしか無くなった。
法を信じさせるための逸話が残っている。新しい法を公布する前、衛鞅は都の市場の南門に長さ3丈の木を立て、これを北門に移した者には10金を与えると告げた。人々は怪しんで誰も動かない。賞金を50金に上げると、一人の男が木を運んだ。衛鞅はすぐに50金を与え、国は約束を破らないことを示した。
法は、身分の高い者にも容赦なく当てはめられた。太子が法を犯したとき、衛鞅は、法が行われないのは上の者が破るからだと言い、太子を罰する代わりに、その教育係の公子虔と公孫賈を罰した。一人は鼻をそがれ、一人は顔に入れ墨をされた。それ以来、秦の人々はみな法に従うようになったという。
紀元前350年、2度目の改革が行われた。都を渭水のほとりの咸陽に移して新しい宮殿を築き、小さな村々をまとめて県を置き、中央から役人を送って治めさせた。田の区画を整理して税を取り直し、升や秤の基準をそろえた。父子や兄弟が同じ部屋で暮らすことも禁じた。改革から10年ほどで、道に落ちている物を拾う者はなく、山に盗賊もいなくなり、人々は国のための戦いには勇んで、私の争いは恐れるようになったと『史記』は記している。
秦は強くなった。紀元前340年、衛鞅は軍を率いて魏を攻め、旧知の魏の将軍を和議の席に招いて捕らえ、その軍を破った。この功で商の地に封じられ、商君と呼ばれるようになった。商鞅という名はここから来ている。
しかし、厳しい法は多くの恨みを買っていた。紀元前338年に孝公が死に、かつて罰した太子が王位につくと、公子虔らが商鞅は謀反を企てていると訴えた。商鞅は逃げ、国境近くの宿に泊まろうとした。ところが宿の主人は、商君の法では身元の分からない客を泊めると罪になると言って断った。商鞅は、法を作った弊害がここまで来たかと嘆いたという。最後は捕らえられ、車裂きの刑に処され、一族も殺された。
商鞅は殺されたが、法は残った。その考えは、のちに商鞅の名を冠した『商君書』にまとめられた。ただし、この本は後の時代の人々の手が多く加わったものとされる。秦の王たちはその仕組みを受け継ぎ、法家の思想は韓非の『韓非子』で理論としてまとめられ、李斯によって政治に生かされた。紀元前260年の長平の戦いで趙を破り、紀元前221年、秦王政は秦の中国統一を成し遂げて始皇帝となる。県を置いて役人に治めさせる仕組みは、その後2000年あまり中国の王朝の土台になった。

一方で、法と刑罰だけで民を動かす政治は、秦が統一からわずか15年で滅びたことと結びつけて語られてきた。漢の時代の賈誼「過秦論」は、秦が仁義を行わなかったことを滅亡の理由に挙げた。商鞅とほぼ同じ時代に生きた孟子は、徳による政治を説いていた。国を強くする法と、人を治める徳の関係は、その後も中国の政治思想の大きな問いであり続けた。