概要
朝日茂は、岡山の国立療養所で長く結核の療養を続け、生活保護を受けていた。日用品に充てる額は月600円で、下着は2年に1枚、ちり紙は月1束という計算だった。1956年、兄から月1500円の仕送りが届くようになると、福祉事務所は日用品の扶助を打ち切り、残る900円を医療費として納めさせた。朝日は、これでは憲法25条の「健康で文化的な最低限度の生活」が守られないとして、国を訴えた。1960年の一審は朝日の訴えを認めたが、二審で逆転し、朝日は上告中に亡くなった。「人間裁判」と呼ばれたこの訴えの後、保護の基準は大きく引き上げられた。
場所
34.66°N 133.92°E · 日本・岡山県
本文
戦後の日本国憲法は、25条で「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」と定めた。これを受けて1950年に新しい生活保護法ができた。だが、最低限度の生活とはどれほどのものかは、厚生大臣が決める保護の基準しだいだった。
朝日茂は、1913年に生まれ、若くして結核にかかり、岡山県の国立療養所で十数年寝たきりに近い暮らしを送っていた。身寄りがなく、生活保護で療養し、日用品に充てる費用として月600円を受け取っていた。国の基準では、肌着は2年に1枚、パンツは1年に1枚、ちり紙は月に1束と計算されていた。療養所の食事だけでは栄養が足りず、患者たちは卵やバターを自分で買い足していた。
1956年、福祉事務所が、長く音信の無かった兄を探し出し、月1500円の仕送りをさせた。すると福祉事務所は、収入ができたとして日用品の扶助600円を打ち切り、仕送りのうち600円を日用品に、残る900円を医療費として納めさせた。朝日の手元は何も変わらなかった。朝日は、600円という基準そのものが低すぎるとして、県と国に不服を申し立て、退けられると、1957年8月12日、厚生大臣を相手に裁判を起こした。
1960年10月19日、東京地方裁判所は、月600円では健康で文化的な最低限度の生活は保てず、基準は憲法25条に反するとして、朝日の訴えを認めた。裁判は「人間裁判」と呼ばれ、労働組合や患者の団体が支援した。だが1963年、東京高等裁判所は、基準は低いが違法とまではいえないとして、朝日の訴えを退けた。
朝日は上告したが、1964年2月に亡くなった。養子となった夫妻が裁判を受け継いだが、1967年、最高裁判所は、保護を受ける権利は本人だけのもので相続されないとして、裁判を終わらせた。そのうえで「念のため」として、何が最低限度の生活かは厚生大臣の判断に委ねられるという見解を添えた。裁判には負けたが、一審の判決のあと、保護の基準は年々大きく引き上げられた。生存権を法廷で問う道を開いた裁判として記憶されている。