できごと

らい予防法の廃止

Repeal of Japan's Leprosy Prevention Law
AD1996年(平成8年)4月1日
重要度 4
ロシア中国モンゴルビルマ大英帝国タイ日本ベトナムラオスフィリピンカンボジア朝鮮民主主義人民共和国大韓民国AD1996年(平成8年)4月1日東京
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概要

ハンセン病は感染力が弱く、1940年代には治る薬ができていた。それでも日本は、患者を療養所に閉じ込める政策を続けた。1907年に始まり、1931年の法で全患者の隔離が国の方針になり、各県が競って患者を探し出して送り込んだ。療養所では改名させられ、子を持つことを許されず、逃げれば監禁室に入れられた。薬が効くと分かったあとも、法は1953年に作り直されて残る。廃止されたのは1996年、始まりから八十九年後である。2001年、熊本地裁は隔離の継続を違憲と認めた。病そのものより、病を恐れる決まりのほうが、人を長く傷つけた。

場所

東京
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都

本文

ハンセン病は、らい菌によって起こる感染症である。菌の力はきわめて弱く、うつることはまれで、たとえ菌が体に入っても、ほとんどの人は発病しない。ただ、病が進むと末梢の神経が冒され、痛みや熱さを感じなくなる。傷ややけどに気づかないまま悪化し、手足や顔が変形することがある。その見た目が、多くの社会で強い恐れと差別を生んだ。病そのものより、病の「しるし」が嫌われたのである。1873年、ノルウェーのアルマウエル・ハンセンがらい菌を見つけ、遺伝でも天罰でもなく感染症であることが明らかになった。

日本が国の制度として患者の隔離を始めたのは、1907年の法律「癩予防ニ関スル件」からである。当初の対象は、家を離れて寺社の門前などで物乞いをして暮らす患者で、各地に設けた療養所に収容した。欧米の人の目に患者の姿が触れることを、文明国の体面にかかわると考える意識もあったとされる。1931年、法律は癩予防法に改められ、家で暮らす者も含め、すべての患者を療養所に隔離することが国の方針になった。

各県は、患者を一人残らず療養所へ送り込もうと競い合った。いわゆる「無らい県運動」である。役所や警察が患者を探し出し、近所からの通報が奨励された。患者が連れ出された家には、白い服を着た係員が来て大がかりな消毒をした。それを見た近所の目は家族にも向けられ、残された家族が縁談を断られ、職を失い、土地にいられなくなることも少なくなかった。

療養所の中の暮らしは、外の社会と切り離されていた。入所すると、家族に累が及ばないよう本名を捨てて偽名を名乗る人が多かった。所内では患者どうしの結婚が認められる場合もあったが、その条件として男性には断種の手術が求められ、妊娠した女性は中絶させられた。療養所の所長には懲戒の権限が与えられ、逃げ出したり逆らったりした者は監禁室に入れられた。群馬県の栗生楽泉園に置かれた「重監房」と呼ばれる施設では、冬の寒さと飢えの中で多くの人が命を落とした。看護や土木、食事の世話や重症者の介助まで、所内の仕事の多くは患者自身が担わされた。

1940年代、アメリカでプロミンという薬が効くことが確かめられた。日本でも戦後まもなく使われ始め、ハンセン病は薬で治る病になった。続いて飲み薬も開発され、早く治療すれば後遺症もほとんど残らなくなる。国際的な会議も、隔離は必要ないと繰り返し勧告するようになった。

それでも日本では隔離が続いた。1951年には、療養所の園長たちが国会で隔離の強化を求める証言をした。1953年、法律は「らい予防法」として作り直されたが、強制的な入所と所長の懲戒の規定は残され、退所の定めは置かれなかった。全国の療養所の患者たちは国会の前に座り込み、食事を断って反対したが、法は成立した。

なぜ続いたのか。医学の知識に制度が追いつかなかったこと。療養所がすでに職員と予算を抱える大きな組織になっていたこと。そして何より、社会の側に、患者に戻ってきてほしくないという空気があったことである。長い隔離の間に、帰る家や家族を失った人も多かった。療養所の外で暮らす道は、制度の上でも、人々の心の上でも閉ざされていた。

らい予防法が廃止されたのは、1996年4月1日である。最初の法律から89年がたっていた。廃止に先立って、厚生大臣が元患者たちに謝罪した。しかし、廃止の法律は、隔離が誤りだったと正面から認めるものではなかった。1998年、療養所の入所者たちは、隔離によって人生を奪われたとして、国に賠償を求める裁判を熊本地方裁判所に起こした。

2001年5月、熊本地裁は原告の訴えを認めた。遅くとも1960年以降は隔離の必要性が失われていたのに政策を改めなかった国の責任を認め、1965年以降も法を廃止しなかった国会の怠りも違法だと判断した。隔離は、日本国憲法が保障する居住・移転の自由を超えて、人として生きる権利そのものを広く奪った、というのが判決の考え方だった。国は控訴を断念し、首相が元患者たちに謝罪した。同じ年、補償の法律が作られた。さらに2019年には、患者の家族も差別の被害を受けてきたとする判決が出て、家族への補償の法律もできた。

それでも、故郷に帰れた人は少なかった。判決のころには入所者の多くがすでに高齢で、体には後遺症が残り、帰る家も迎える家族も無い人が多かった。家族の側が受け入れをためらうこともあった。2003年には、熊本県のホテルが療養所の入所者の宿泊を断る事件も起きている。いまも全国の国立療養所には、平均年齢が80代後半になった人々が暮らし、そこで生涯を終えていく。

人を隔てることは、ラグーサの検疫以来、感染症に対する基本の手段だった。ハワイのカラウパパの隔離地のように、ハンセン病の患者を島や谷に集める政策は世界の各地にあった。日本の問題は、隔離そのものよりも、薬ができ、必要が無くなったと分かってからも、さらに半世紀近く続けたことにある。制度は作るより、やめるほうが難しい。やめるには、これまでが間違いだったと認めなければならない。その一言を言うまでに、89年かかった。

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