概要
鄭の宰相が、刑法の条文を鼎に鋳て公開した。中国で法を書いて示した最初とされる。晋の叔向が「民が法を知れば争いを恐れなくなる」と手紙で責め、子産は「世を救うためだ」と返した。
場所
新鄭
34.40°N 113.74°E · 中国・河南省
34.40°N 113.74°E · 中国・河南省
関わった人(1)
子産?–BC522年 · 宰相本文
鄭は洛陽のすぐ東にある小さな国で、 北の晋と南の楚に交互に攻められていた。
子産は公族の出で、BC543年から宰相として国を治めた。 田の境を整え、村の組を作り、税を軍に回した。 最初は「子産を殺したい」と歌われ、 三年後には「子産が死んだら誰が継ぐのか」と歌われた、と『左伝』は言う。
BC536年、刑法の条文を鼎に鋳て公開した。 それまで法は貴族が知り、事に応じて決めるものだった。 晋の叔向が手紙で責めた。 「民が法を知れば、上を敬わず、法の文言を争うようになる」。 子産は「私は才なく、子孫のことは考えられない。世を救うためだ」と返した。
23年後、晋も刑法を鼎に鋳た。 孔子はそれを批判したが、子産のことは 「恵人なり」「古の遺愛なり」と言った。 死んだと聞いて泣いたと伝わる。