できごと

子産の刑鼎

Zichan casts the penal code in bronze
BC536年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民原アルタイ系の牧畜民カラスク文化チベット系諸集団イラン系の牧畜民ヴェーダ期のアーリヤ人オーストロアジア系の稲作民中華系の人びとZhoaドラヴィダ系の人びとビルマ系の人びと縄文後期Wuアイヌ朝鮮半島の先住集団BC536年新鄭
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC536年の版図を描いています(16勢力)。

概要

鄭の宰相が、刑法の条文を鼎に鋳て公開した。中国で法を書いて示した最初とされる。晋の叔向が「民が法を知れば争いを恐れなくなる」と手紙で責め、子産は「世を救うためだ」と返した。

場所

新鄭
34.40°N 113.74°E · 中国・河南省

関わった人(1)

子産?–BC522年 · 宰相

本文

春秋時代の中ごろ、黄河の南に、鄭という小さな国があった。いまの河南省、周の都洛陽のすぐ東で、北には大国の晋、南には大国の楚がある。晋が来れば晋に従い、楚が来れば楚に従う。鄭は二つの大国の間で、何度も攻められ、そのたびに貢ぎ物と人質を差し出して生き延びてきた(春秋の争覇と鉄製農具)。

子産は、その鄭の公族の家に生まれた(子産)。名は公孫僑。若いころから見識で知られ、紀元前543年、国の政治を任される地位に就いた。国内では有力な貴族の家々が争い、前の執政者は内乱で殺されていた。

鄭・子産
鄭・子産Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

子産は、まず田畑の境界を正し、用水路を整え、村々を組に分けて管理した。数年後には、土地の広さに応じて軍の費用を負担させる新しい税を定めた。貴族の特権に切り込み、民にも負担を求める改革である。『春秋左氏伝』は、そのころ人びとが歌った歌を伝えている。最初の年には、私の着物を取り上げ、私の田を組に分けた、子産を殺す者がいたら私も加わろう、と歌った。それが3年後には、私の子弟を子産が教え、私の田を子産が実らせた、子産が死んだら誰が後を継ぐのか、と歌うようになった。

子産のやり方をよく示す話がある。鄭の人びとは、村の学校に集まっては、政治の良し悪しを論じ合っていた。ある家臣が、あの学校を取り壊してはどうかと言うと、子産は答えた。人びとがよいと言うことは続け、悪いと言うことは改める。彼らは私の師だ。なぜ壊すのか。議論を力で抑え込むのは、川の流れをせき止めるようなもので、決壊すれば多くの人が傷つく。少しずつ流れを通してやるほうがよい、と。

『三才図会』に描かれた子産の肖像
『三才図会』に描かれた子産の肖像Wikimedia Commons 《三才圖會》,王圻及王思義撰寫 · Public domain

紀元前536年、子産は刑罰の定めを青銅の鼎に鋳込んで、人びとに示した。これを「刑書を鋳る」という。それまで、罪と罰は、貴族たちが先例と礼に照らして、そのつど決めるものだった。何が罪で、どんな罰を受けるのかは、裁く側の胸の内にあった。それを、誰もが見られる形で書き出したのである。中国で成文の法を公にした最初の例とされる。

隣の大国晋の賢者、叔向は、子産に長い手紙を送って、これを責めた。昔の王たちは、刑罰をあらかじめ示さなかった。民が争う心を起こすのを恐れたからだ。民が法の文を知れば、上を敬わなくなり、文の字句を盾に争うようになる。小刀の先ほどの細かいことまで争い尽くすだろう。鄭は、あなたの代で衰えるのではないか、と。

『史記』の著者、司馬遷(前145年頃〜前86年頃)
『史記』の著者、司馬遷(前145年頃〜前86年頃)Wikimedia Commons Public domain

子産の返事は短かった。おっしゃる通りかもしれない。だが私は才が無く、子孫のことまでは考えが及ばない。私がこうするのは、いまの世を救うためだ、と。理想を語るより、目の前の乱れを収める。それが子産の答えだった。

それから23年後の紀元前513年、叔向の国である晋も、刑罰を鼎に鋳込んだ。このとき孔子は、晋は滅びるだろう、法の度を失った、と言ったと『左伝』は伝える。礼による秩序を重んじた孔子にとって、刑罰の文を民に示すことは、身分の秩序を崩すことだった。

センネジェムの墓室壁画、畑を耕す場面
センネジェムの墓室壁画、畑を耕す場面Wikimedia Commons Painter of the burial chamber of Sennedjem · Public domain

それでも孔子は、子産その人を高く評価した。『論語』には、子産には君子の道が四つあった、身を慎み、上に仕えて敬い、民を養うのに恵み深く、民を使うのに正しかった、とある。子産はどんな人かと問われて、恵み深い人だ、とも答えている。村の学校の話を聞いたときには、子産を仁でないと言う者がいても、私は信じない、と言ったという。

子産はまた、天の星の動きに吉凶を読む占いを退けた人でもあった。鄭で大火が起きると予言した者が、祭りをすれば防げると迫ったとき、子産は、天の道は遠く、人の道は近い、と言って取り合わなかった。

蟠龍文の青銅鼎、子産の時代から数十年後の晋国のもの
蟠龍文の青銅鼎、子産の時代から数十年後の晋国のものWikimedia Commons Public domain

紀元前522年、子産は病に倒れた。後継者に、こう言い残したという。徳のある者だけが、寛やかさで民を従わせることができる。そうでなければ、厳しさにまさるものは無い。火は激しいので、人は見て恐れ、焼け死ぬ者は少ない。水は柔らかいので、人は侮って近づき、溺れ死ぬ者が多い。子産が死んだと聞いた孔子は、涙を流して、古の愛を受け継いだ人だった、と言ったと伝えられる。

法を書いて示すという子産の試みは、のちの戦国時代に大きく広がった。各国は法を整え、それによって国を強くしようとした。その流れはやがて、法による統治を説く法家の思想を生み(『韓非子』)、法で天下をまとめた秦の統一につながっていく。

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