人物

孔子

Confucius
BC551年 – BC479年(享年72・推定)
魯重要度 5

概要

礼と仁を説き、その言行が『論語』にまとめられた。東アジアの秩序観の土台になる。

別名

こうし、孔丘

関わったできごと(2)

孔子の遍歴BC497年 · 遍歴『論語』の成立BC400年頃 · 言葉の主

本文

紀元前551年、周の諸侯の国の一つ、魯の陬邑に生まれた。いまの山東省の曲阜の近くになる。生年には紀元前552年とする説もある。名は丘、字は仲尼。孔子の「子」は先生という意味の敬称である。

『詩経』の竹簡(上海博物館所蔵)
『詩経』の竹簡(上海博物館所蔵)Wikimedia Commons Shanghai Museum · Public domain

父の叔梁紇は武勇で知られた老いた武人で、母の顔徴在はずっと若かった。『史記』は二人の結びつきを、正式の婚礼を経ないものだったと書いている。父は孔子が3歳ほどのときに死に、母と二人の貧しい暮らしになった。子どもの頃、祭りの器を並べて儀式のまねをして遊んだと伝えられる。

のちに孔子は、自分は若い頃に身分が低かったので、つまらない仕事がいろいろできるのだ、と言っている。倉庫の出納係や、家畜の管理係として働いた。15歳で学問に志し、30歳で自分の足で立ち、40歳で迷わなくなった、という『論語』の言葉はよく知られる。

イエズス会士がパリで1687年に刊行した孔子の伝記の挿絵
イエズス会士がパリで1687年に刊行した孔子の伝記の挿絵Wikimedia Commons Prospero Intorcetta, Philippe Couplet, et al. · Public domain

孔子が生きたのは、春秋の争覇と鉄製農具の終わりにあたる。周の王の権威は衰え、諸侯の国々は互いに争い、国の中でも家臣が主君をしのいでいた。魯では、季孫氏ら三つの有力な家が実権を握り、君主はその飾りになっていた。孔子は、このような秩序の崩れを、周の初めの理想の時代から遠ざかったものと見た。

そこで説いたのが、礼と仁だった。礼は、祭りや儀式の作法から、親子・君臣のあるべき振る舞いまでを含む決まりである。仁は、人を思いやる心で、自分がされたくないことを人にしてはならない、という言葉で言い表された。法と刑罰で民を縛れば、民は罰を逃れようとするだけで恥を知らない。徳と礼で導けば、恥を知って自ら正しくなる、とも言っている。

孔子にひざまずく曾子。『孝経』図解(宋代)
孔子にひざまずく曾子。『孝経』図解(宋代)Wikimedia Commons Unknown artist(s) from the Song dynasty The work is traditionally attributed to Ma Hezhi (fl. 1131-1189) as painter and · Public domain

身分を問わずに弟子を取った。干し肉の束ほどのわずかな謝礼を持ってくれば、誰でも教えたという。弟子は3000人、六芸に通じた者は72人と伝えられる。商売で財をなした子貢、勇ましく率直な子路、貧しくても学ぶことを楽しんだ顔回など、弟子たちの個性は『論語』の中で生き生きと描かれている。

50歳を過ぎて、ようやく魯の政治に加わった。地方の町の長から、法を司る大臣にあたる司寇に上る。隣の大国斉との会見では、礼の手順を盾に斉の無礼をとがめ、奪われていた土地を取り戻したと伝えられる。だが、三つの家の城壁を壊して力をそごうとした改革は、途中で挫折した。

仇英(1494-1552年)画の孔子像
仇英(1494-1552年)画の孔子像Wikimedia Commons 孔子 · Public domain

紀元前497年頃、孔子は魯を去り、弟子たちを連れて諸国を巡る旅に出た(孔子の遍歴)。自分の政治の理想を用いてくれる君主を探す旅だったが、どの国でも重用されなかった。宋では、命を狙われて木の下から逃げ出した。陳と蔡の間では、包囲されて食糧が尽き、弟子たちは病み、子路は君子でも困窮するのですかと詰め寄った。孔子は、君子ももちろん困窮する、だが小人は困窮すると乱れる、と答えたという。旅はおよそ14年に及んだ。

紀元前484年頃、68歳で魯に戻った。政治には加わらず、弟子を教え、古い書物を整えることに残りの年月を使った。詩を集めた『詩経』や、魯の年代記『春秋』を孔子が編んだとする伝えがあるが、どこまでが孔子の手によるものかは、学者の間で議論がある。

鎮海の孔子廟の正門
鎮海の孔子廟の正門Wikimedia Commons Thomas Allom · Public domain

晩年は悲しみが続いた。息子に先立たれ、最も愛した弟子の顔回が若くして死ぬと、天は私を滅ぼした、と嘆いた。子路は衛の内乱で殺された。紀元前479年、孔子も死んだ。数えで74歳とされる。弟子たちは3年の喪に服し、子貢はさらに3年、墓のそばに住んだという。

礼と仁を説き、その言行が『論語』にまとめられた。ただし『論語』は、孔子自身が書いたものではない。弟子や、さらにその弟子たちが、師の言葉と振る舞いを書き留め、何世代もかけて編んだものとされる(『論語』の成立)。短い言葉の積み重ねで、体系だった理論書ではない。

『論語』の成立に関わる図版:Rongo Analects 02
『論語』の成立Wikimedia Commons Confucius and his disciples, · Public domain

孔子の教えは、死後すぐに広まったわけではない。孟子が人の本性は善だとして教えを深め、荀子が礼の側面を発展させた。秦の時代には、焚書坑儒で儒家の書物が焼かれている。転機は前漢の時代で、儒学の官学化によって儒学は国家の学問になった。のちに官吏を選ぶ試験の科挙の始まりが始まると、儒教の経典が出題の中心になり、学ぶ者は皆その言葉を暗記した。宋の時代には朱熹(朱子)が新しい解釈で体系を組み直し、その学問は朝鮮と日本の武家社会にも深く根を下ろした。

東アジアの秩序観の土台になる。親を敬い、年長者を立て、学ぶことを尊ぶ考え方は、国の違いを越えて広がった。一方、20世紀の中国では、古い家族制度と身分秩序を支える教えとして激しく批判され、文化大革命の中では「孔子批判」の運動まで起きた。墓や廟が壊されたこともある。いまは再び国の文化の象徴として持ち上げられている。

孔子の子孫の家系は、80代目近くまで系図がたどられ、世界で最も長く続く家系の一つとされる。自分は古いことを伝えるだけで、新しく作ったのではない、と孔子は言った。理想の秩序を過去に求めた人の言葉が、2500年後のいまも、人の生き方を問う言葉として読まれている。

動画(1)

【東洋哲学史①】春秋戦国時代の思想家たち「諸子百家」中田敦彦のYouTube大学 - NAKATA UNIVERSITY東洋哲学史の第1回。孔子を含む諸子百家を並べて語る
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