概要
1945年11月16日、ロンドンに集まった40を超える国の代表は、国際連合の教育科学文化機関、ユネスコの憲章に署名した。憲章の前文は、戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない、と書いた。教育と科学と文化の交流を通じて、互いを知らないことから来る疑いと不信をなくすことが目的だった。本部はパリに置かれた。日本では1947年に仙台で世界初の民間のユネスコ協会が生まれ、日本は1951年、まだ占領下のうちに加盟した。戦後の日本が初めて加わった国際機関だった。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
第二次世界大戦のさなかの1942年、ナチ・ドイツに占領された国々の教育大臣たちが、ロンドンに集まって会議を開いた。戦争が終わったら、壊された学校と図書館をどう建て直すか、そして子どもたちにどんな教育をすべきかを話し合うためだった。この連合国教育大臣会議が、ユネスコの出発点になった。
1945年11月、戦争が終わって間もないロンドンで、44か国の代表が集まって会議を開いた。11月16日、37か国が国際連合教育科学文化機関、ユネスコの憲章に署名した。憲章の前文は、戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならないと書き出した。そして、互いの風習と生活を知らないことが、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑いと不信をおこした共通の原因であり、その疑いと不信のために、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった、と述べた。この一節は、アメリカの詩人アーチボルド・マクリーシュの手によるとされる。
憲章は1946年11月に発効し、本部はパリに置かれた。初代の事務局長は、イギリスの生物学者ジュリアン・ハクスリーだった。ユネスコは、読み書きのできない人に教育を広める運動、科学者の国際的な協力、文化の遺産の保護、報道の自由などに取り組んだ。1960年代には、アスワン・ハイ・ダムで沈むヌビアの遺跡を救う国際的な運動を率い、それが1972年の世界遺産条約につながった。
敗戦国の日本では、ユネスコの理想に共鳴する人々が、まだ占領下の1947年、仙台に世界で初めての民間のユネスコ協会を作った。民間のユネスコ運動は全国に広がり、日本は1951年7月、サンフランシスコ講和条約の調印より前に、ユネスコに加盟した。戦後の日本が初めて加わった国際機関だった。
ユネスコは、しばしば大国の政治に揺さぶられた。1984年、アメリカは、ユネスコが反欧米的で、運営が放漫だとして脱退し、イギリスも続いた。アメリカは2003年に復帰したが、2011年にパレスティナの加盟が認められると分担金を止め、2018年に再び脱退した。2023年に復帰したものの、2025年にはまた脱退を表明している。それでもユネスコは、世界遺産、無形文化遺産(和食の無形文化遺産)、世界の記憶などの事業を通じて、多くの人にとって身近な国際機関になっている。