ヘレン・ケラーが言葉を得た日
概要
井戸の水を手に受けながら、指に w-a-t-e-r と綴られた。それが名前だと分かった。その日のうちに30の語を覚えたと伝わる。
場所
34.73°N -87.70°E · アメリカ合衆国・アラバマ州
関わった人(1)
ヘレン・ケラーAD1880年6月27日–AD1968年6月1日 · 学んだ本文
ヘレン・ケラーは1880年6月27日、アメリカ南部アラバマ州北部の町タスカンビアで生まれた。父は南北戦争で南軍の大尉を務めた人で、町で新聞を出していた。生後19か月のとき、高い熱の出る病にかかり、命は取りとめたが、目と耳の働きを失った。病名ははっきりせず、猩紅熱や髄膜炎が挙げられている。
それから5年近く、ヘレンは暗く音のない世界で育った。手まねで60ほどの合図を作り、母の服をつかんで後をついて回った。だが言葉という仕組みは持っていない。思いどおりにならないと床を転げて泣きわめき、皿から手づかみで食べ、家族は誰も叱れなかった。親類の中には、施設に入れるよう勧める者もいた。

母は、イギリスの作家ディケンズがアメリカ旅行記に書いた一人の少女の話を読んでいた。ボストンのパーキンス盲学校で、目と耳の不自由な少女ローラ・ブリッジマンが指文字で言葉を学んだ、という話だ。両親はヘレンをボルティモアの眼科医に診せ、その医師の勧めでワシントンのアレクサンダー・グラハム・ベルを訪ねた。電話を発明したベルは、聾の人々の教育に力を注いでいた。ベルの紹介で、パーキンス盲学校の校長に手紙が送られ、一人の卒業生が家庭教師として送られることになった。
その人がアン・サリヴァンだった。20歳。マサチューセッツの貧しいアイルランド系移民の家に生まれ、幼くして母を亡くし、弟とともに救貧院に入れられた。自分も目の病気で視力が弱く、手術を重ねてようやく本が読めるようになったばかりだった。ローラ・ブリッジマンの指導記録を読み込み、本人とも言葉を交わしてから、1887年3月3日、タスカンビアに着いた。

サリヴァンは最初の日から、ヘレンの手のひらに指で文字を綴った。人形を渡しては「d-o-l-l」。ケーキを渡しては「c-a-k-e」。ヘレンはすぐに指の動きをまねるようになったが、それは遊びの一種で、物に名前があるということは分かっていなかった。食事のたびに他人の皿へ手を伸ばすヘレンと、それを許さないサリヴァンとのあいだで、取っ組み合いのような戦いが続いた。サリヴァンは両親に頼み、庭の離れでヘレンと二人きりで暮らす許しを得た。甘やかす家族から引き離して、ようやく少しずつ落ち着いていった。
4月5日の朝、顔を洗っていたヘレンが、水の名前を知りたがった。サリヴァンは「w-a-t-e-r」と綴った。その日、二人は母屋の脇にある井戸小屋へ出かけた。誰かがポンプで水を汲んでいた。サリヴァンはヘレンの片方の手を噴き出す水の下に置き、もう片方の手のひらに「w-a-t-e-r」と綴った。最初はゆっくり、次に速く。

ヘレンは立ちつくした。のちに書いた自伝『わたしの生涯』で、忘れていた何かをぼんやりと思い出すような感覚があり、言葉の神秘が明かされた、と振り返っている。指の上の動きが、手の上を流れる冷たいものの名前だと分かった。ヘレンは地面にかがんで、その名前を求めた。ポンプを、格子の垣根を指さした。そして振り向いて、サリヴァンを指した。サリヴァンは「t-e-a-c-h-e-r(先生)」と綴った。
サリヴァンはその日の夕方、盲学校の寮母への手紙に、ヘレンが数時間のうちに30の新しい言葉を覚えたと書いた。家へ帰る道のあいだ、ヘレンは触れるものすべての名前を尋ねた。自伝によれば、その夜、前の週に癇癪を起こして壊した人形のことを思い出し、初めて後悔の涙を流したという。6歳9か月だった。ヘレンはのちに、サリヴァンが来た3月3日を「魂の誕生日」と呼んだ。
そこから先の進み方は速かった。半年で数百の言葉を覚え、凸字の本と点字の考案の点字を読み、10歳で声を出して話す訓練を始めた。サリヴァンは授業のあいだ、教科書をヘレンの手に綴り続けた。1904年、ヘレンはラドクリフ・カレッジを優等で卒業し、目と耳の不自由な人として初めて学士の学位を得た。在学中に書いた『わたしの生涯』は、いまも世界中で読まれている。

その後のヘレンは、目の不自由な人々の福祉のために講演と募金を続け、女性の参政権や労働者の権利を訴える社会運動にも加わった。日本にも3度訪れている。サリヴァンは1936年に亡くなるまで、50年近くヘレンのそばにいた。ヘレン自身は1968年に87歳で亡くなる。井戸小屋の場面は、のちに戯曲と映画『奇跡の人』で描かれ、人が言葉を得る瞬間の象徴として知られるようになった。「奇跡の人」とは、ヘレンではなく、サリヴァンを指した題だった。