概要
1957年9月23日、大阪の千林の商店街に、中内功が薬と日用品の安売りの店「主婦の店ダイエー」を開いた。フィリピンの戦場で飢えを経験した中内は、物を安く大量に売ることにこだわった。メーカーが決めた値段で売るという当時の決まりに逆らい、自ら値段を付けて売る。メーカーとの争いも辞さなかった。店は食品にも手を広げ、客が自分で商品を籠に入れて会計に運ぶセルフサービスのスーパーマーケットとして、全国に店を増やす。1972年、ダイエーは売上で三越を抜き、日本一の小売りの会社になった。町の八百屋や魚屋で買う暮らしが、変わっていった。
場所
34.69°N 135.53°E · 日本・大阪府
本文
中内功は、神戸の薬屋の家に生まれた。戦争で兵士としてフィリピンに送られ、飢えの中で死線をさまよった。仲間が次々に死に、自分は手榴弾の破片を受けながら生きて帰った。戦後、腹いっぱい食べられることの大切さが、彼の商売の出発点になった。
1957年9月23日、中内は大阪の千林の商店街に、薬と化粧品と日用品を安く売る「主婦の店ダイエー」を開いた。当時は、メーカーが店に売り値を指示し、どの店も同じ値段で売るのが当たり前だった。中内は、自分で仕入れた物に自分で値段を付け、大量に売って安くした。「良い品をどんどん安く」が標語である。
店はすぐに菓子や食品を加え、客が店の中を歩いて商品を籠に入れ、出口で代金を払うセルフサービスの形をとった。八百屋、魚屋、肉屋と店ごとに回って買い、店の人と話しながら量ってもらう買い物が、一つの店で済むようになる。牛肉を安く売るために、牛を丸ごと仕入れて自分で切り分けた。1964年には、テレビの値段を下げて売ろうとして松下電器と対立し、30年にわたって取引が止まった。
1972年、ダイエーは売上で百貨店の三越を抜き、日本で最も大きな小売りの会社になった。郊外に大きな店を開き、全国に広がっていく。しかし、土地の値上がりを当てにして借金で店を増やすやり方は、バブルの崩壊で行き詰まる。1995年の阪神・淡路大震災では、被災地の店を開け続けて物を届けた。2000年代、経営は立ち行かなくなり、会社はほかの会社の傘下に入った。