かんばん方式
概要
工場では、部品が工程と工程のあいだに山と積まれて、次の工程を待っていた。トヨタ自動車の大野耐一は、この待っている部品こそが無駄を隠していると考えた。後の工程が使った分だけを、前の工程に取りに行く。取りに行くときに、何をいくつ持っていったかを書いた札を置いてくる。前の工程は、札の枚数だけを作る。アメリカのスーパーマーケットの、減った分だけ棚を補う仕組みから思いついたと大野は書いている。1953年に本社工場の機械工場で始め、十年ほどかけて全社へ広げた。物を待たせないことで、どこで流れが詰まるかが見えるようになった。
場所
35.08°N 137.16°E · 日本・愛知県豊田市
本文
20世紀半ばの工場の中は、待っている物でいっぱいだった。前の工程は、作れるだけ作る。できた部品は次の工程の前に積んでおき、次の工程は手が空いたときにそこから取る。この山は、安心のもとでもあった。前の工程の機械が止まっても、山があれば後ろの工程はしばらく動き続けられる。
だが、山には代価があった。まず、山は金である。材料を買い、手間をかけ、まだ売れていない品が積まれている。山は場所も取る。そして山は、不良を隠す。後の工程が部品を使うころには、作ってから何日もたっていて、どこでおかしくなったのかが分からない。何より、どの工程が遅いのかが見えなくなる。山があると、速いところも遅いところも、全部ならされてしまうのである。
この山に目をつけたのが、トヨタ自動車の大野耐一(1912〜1990年)だった。中国の大連に生まれ、名古屋高等工業学校を出て豊田紡織に入り、戦争中にトヨタ自動車へ移った技術者である。戦後の1949年、彼は機械工場の責任者になった。
その頃のトヨタは苦しかった。1950年には経営が行き詰まり、大きな労働争議が起き、創業者の豊田喜一郎が社長を退いている。アメリカの自動車会社との生産性の差は大きかったが、同じように大量に作って安くするほどの売れ行きは、日本には無かった。少ない数で、いろいろな車を作り、それでいて無駄を出さない。喜一郎が「必要なものを、必要なときに、必要なだけ」という意味で唱えていた「ジャスト・イン・タイム」の考えを、大野は工場の床の上で形にしようとした。
大野は、物の流れの向きをひっくり返した。前の工程が作った物を後ろへ押し出すのではなく、後の工程が、使った分だけを前の工程へ取りに行く。そうすれば前の工程は取られた分だけを作ればよく、取られなければ作らない。作りすぎが起きなくなる。
問題は、何をいくつ取っていったのかを、どう前の工程に伝えるかだった。そこで使われたのが札である。部品を入れた箱に札を付けておき、後の工程は箱を持っていくときにその札を外して置いてくる。前の工程は、置かれた札の枚数だけ部品を作る。この札が「かんばん」である。電算機も、細かな生産計画の表もいらない。札の束が、そのまま作るべきものの指示書になった。
大野は、この仕組みをアメリカのスーパーマーケットから思いついたと書いている。客は棚から、要るものを要る分だけ取っていく。店は減った分だけ棚を補う。客のために先回りして山を作っておくことはしない。大野は後の工程を客に、前の工程を店に見立てた。だから初めはこの方式を「スーパーマーケット方式」と呼んでいた。アメリカで20世紀の初めに生まれたセルフサービスの棚の考え方が、日本の工場へ移ったのである。
1953年、大野は本社工場の機械工場でこのやり方を始めた。彼が実際にアメリカへ行ってスーパーマーケットを見るのは、それより後のことで、まず話に聞いた仕組みを工場でまねたことになる。
現場の反発は強かった。山が消えれば、どこか一か所が止まっただけで、すぐに全体が止まってしまう。働く人々はそれを恐れた。だが大野の考えは逆だった。止まれば、そこが弱いところだと分かる。分かれば直せる。山は、直すべきところを覆い隠していただけだというのである。同じトヨタには、豊田佐吉の自動織機以来の、異常があれば機械を止めて原因を正すという考えもあった。かんばんは、それを工場全体の物の流れに当てはめるものでもあった。
仕組みは少しずつ広げられ、1960年代の初めには全社で使われるようになった。始めてから10年ほどかかっている。やがてトヨタは、部品を納める外の会社にも、かんばんで必要な分だけを届けるよう求めるようになった。
この方式が外の世界で注目されたのは、1973年のオイルショックの後である。日本の多くの会社が赤字に落ちる中で、トヨタはいち早く利益を回復した。その秘密を知ろうとする人々に向けて、大野は1978年に『トヨタ生産方式』を書く。本は英語にも訳され、「かんばん」や「ジャスト・イン・タイム」という言葉は、そのまま世界の工場の言葉になった。のちにアメリカの研究者たちは、こうした考え方を「リーン生産」と名付けて広めていく。
ただし、山を消すことは、危うさを抱え込むことでもあった。部品を作る会社は、少しずつ何度も届けなければならず、トラックが工場の周りの道を埋めることになった。そして、一か所が止まれば全部が止まる。1997年、ブレーキの部品を一手に作っていたアイシン精機の工場が火事になると、トヨタの組み立ての工場が軒並み止まった。2011年の東日本大震災と福島第一原発事故でも、部品の供給が途切れて生産が止まった。それでも、元の大きな山に戻るのではなく、どの部品をどこにどれだけ持っておくかを選び直す、という道が選ばれた。
工場で待たされていたのは、人ではなく物だった。20世紀の初め、デンマークの技師アーランは、電話がつながるのを待つ人々の列を数式で扱った(待ち行列の理論)。大野は、工程を待つ部品の列を消しにかかった。列はただの無駄ではない。列の長さは、どこが詰まっているかのしるしである。大野はそれを山で埋めずに、見えるままにした。
フォードの流れ作業は、物を人の前まで運ぶことで、大量に作る時代を開いた。トヨタのかんばんは、物が呼ばれるまで来ないようにすることで、少しずつ、いろいろなものを、無駄なく作る道を開いた。札一枚で物の流れを逆向きにしたこの工夫は、いまでは工場の外でも、仕事の進み具合を見えるようにする方法として、事務所や病院、ソフトウェアの開発にまで取り入れられている。