できごと

押し屋

Passenger pusher
AD1955年(昭和30年)10月24日
重要度 3
ソビエト連邦大英帝国中国モンゴルManchuriaチベットビルマタイ日本ラオスフィリピンカンボジア朝鮮(ソ連軍政)安南Tonkin朝鮮(アメリカ軍政)コーチシナAD1955年(昭和30年)10月24日新宿
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概要

戦後の東京では郊外に人が移り住み、朝の電車に乗客が溢れた。扉が閉まらず、発車が遅れ、その遅れが次の電車に積み重なっていく。国鉄は新宿駅に、ホームで乗客を車内へ押し込む係を置いた。正式の名は「旅客整理係学生班」で、多くは大学生のアルバイトだった。列に並んで待つ者を、一本でも早く運ぶために、車両の中の隙間を詰める。高度成長期には定員の二倍を超える混雑が当たり前になり、白い手袋で背中を押す姿は外国の雑誌にも載った。線路と車両を増やすまでのあいだ、足りない輸送力を人の手で埋めた仕事である。

場所

新宿
35.69°N 139.70°E · 日本・東京都新宿区

本文

戦後の東京は、外へ外へと広がった。焼け跡には疎開先や戦地から人々が戻り、地方からは働き口を求めて若者が集まってくる。都心には住む場所が足りない。人々は郊外に家を求め、そこから都心の職場へ通うようになった。朝、中央線や山手線、郊外から延びる私鉄の電車が、乗り換えの客を乗せて新宿に集まってくる。ホームには、一本の電車に乗り切れない人の列ができた。

混雑は、乗る人が苦しいというだけでは済まなかった。乗り切れない客が扉のところに残ると、扉が閉まらない。閉まらなければ発車が遅れる。遅れた電車が次の駅に着くころには、そこで待つ客がいつもより多く溜まっていて、さらに乗り切れない。後ろの電車も前が詰まって進めない。一本の電車の数十秒の遅れが、朝のすべての電車に積み重なっていく。待っている列を早くさばくには、電車を時刻どおりに出すしかなく、そのためには扉を閉めるしかなかった。

夜の新宿(1933年10月)
夜の新宿(1933年10月)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1955年10月24日、国鉄は新宿駅に新しい係を置いた。正式の名は「旅客整理係学生班」で、多くは大学生のアルバイトだった。仕事はホームに立ち、扉の前で乗り切れない客の背中を押して車内に収め、扉に挟まった鞄や服の裾を押し込み、扉を閉めさせることである。人々は彼らを「押し屋」と呼んだ。逆に、乗りすぎて扉が閉まらないときに客を引きはがす役目もあり、こちらは「はがし屋」と呼ばれたともいう。

押し屋の仕事は、乱暴に見えて、目的ははっきりしていた。車内の隙間を詰めれば、一本の電車に乗れる人が少し増える。ホームに残る人が減れば、扉が閉まり、電車が時刻どおりに出る。列に並んで待つ人を一本でも早く運ぶための、人の手による調整である。

1960年頃
1960年頃Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

高度成長の時代に入ると、混雑はさらにひどくなった。東京の主な路線では、朝のいちばん混む時間帯に定員の二倍を超えるのが当たり前になり、三倍に近い区間もあったとされる。1964年の東京オリンピックのころには、白い手袋をはめた係が乗客を電車に押し込む写真が外国の雑誌にも載り、東京の朝の姿として世界に知られるようになった。

押し屋は、所詮は時間稼ぎだった。本当に要るのは、電車の本数と、それを走らせる線路である。待ち行列の理論で言えば、客の来る速さが運ぶ速さに近づくほど、列は急激に長くなる。押し屋は運ぶ速さを車内の隙間の分だけ上げたが、隙間には限りがある。人の手で埋められるのは、ほんのわずかだった。

国鉄は1960年代の半ばから、「通勤五方面作戦」と呼ばれる大工事に取りかかった。東海道、中央、東北・高崎、常磐、総武の五つの方面で、線路を二本から四本に増やして急ぐ電車と各駅に止まる電車を別々の線に分け、地下鉄との直通運転を進める計画である。都市の真ん中で、毎日電車を走らせながら線路を増やす工事は難しく、完成までには二十年近くかかった。車両も変わった。扉の数を増やし、混む時間には座席を畳んで立つ場所を広げる電車も現れた。

押し屋が車内の隙間を埋めているあいだに、東京は線路を増やしたのである。やがて混雑の数字は下がっていった。線路と車両が増えたことに加えて、都心へ通う人の数の伸びが止まり、出勤の時刻をずらす取り組みも広がった。国鉄は1987年に分割され、民営になった(国鉄の分割民営化)。

押し屋は、いなくなったわけではない。いまも朝のいちばん混む駅には、扉の前に係が立ち、乗客の背中にそっと手を添える姿が見られる。ただし、その数はずっと少なくなった。待たせる時間を減らす方法は二つある。速く運ぶか、来る人を減らすかである。東京は半世紀かけて、その両方をやった。押し屋は、その長い工事が終わるまでのあいだ、足りない輸送力を人の手で埋めた仕事だった。

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