できごと

セルフサービス

Self-service retail
AD1916年9月6日
重要度 4
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国デンマークメキシココロンビアベネズエラグレートブリテン及びアイルランド連合王国ニカラグアホンジュラスキューバグアテマラAD1916年9月6日メンフィス
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概要

それまでの食料品店では、客が欲しいものを店員に告げ、店員が棚から取ってくる。時間がかかり、人手が要る。クラレンス・サンダースは、メンフィスの店で、客を回転式の木戸から入れ、通路を一本道にして、すべての棚を通らせ、出口で精算させた。店員が減り、値が下がる。すべての商品に値札を付ける必要が生まれ、包装と銘柄が意味を持つようになった。買う物を、客が自分で選ぶ。ピグリー・ウィグリーという名の由来を、彼は最後まで説明しなかった。

場所

メンフィス
35.15°N -90.05°E · アメリカ・テネシー州

本文

20世紀の初めまで、食料品店での買い物は店員を介して行うものだった。客はカウンターの前に立ち、欲しいものを一つずつ告げる。店員が後ろの棚から品を取り、小麦粉や砂糖や豆のような量り売りの品は、その場で量って袋に詰める。その間、次の客は待っている。時間がかかり、人手が要り、その人件費は値段に上乗せされた。多くの店は掛け売りと配達もしていて、それも費用だった。

この形を変えたのが、クラレンス・サンダース(1881〜1953年)である。ヴァージニアの貧しい家に生まれ、十代で雑貨屋の店員になった。のちに食料品の卸売会社で働き、小売店の仕事の無駄を間近に見た。客を待たせ、店員を何人も抱え、それでも売れる量は増えない。彼は、店員がしていることのかなりの部分を、客自身にやってもらえばよいと考えた。

セルフサービス飲食店のトレイ返却口
セルフサービス飲食店のトレイ返却口Wikimedia Commons Masahiko OHKUBO · CC BY 2.0

1916年9月6日、テネシー州メンフィスのジェファーソン街に、その店が開いた。名はピグリー・ウィグリー。名の由来を聞かれても、サンダースははっきり答えなかった。人がそう尋ねるからこの名にしたのだ、と答えたとも伝えられるが、確かな記録ではない。

店の作りは、翌1917年に特許を取るほど念入りに考えられていた。客は入口の回転式の木戸を通って入る。木戸は一方向にしか回らない。中に入ると通路は一本道で、蛇行しながらすべての棚の前を通るように組まれている。客は籠を手に、棚から自分で品を取る。すべての品には値札が付いていて、出口の精算台でまとめて払う。店員の仕事は、棚に品を補充することと、精算することだけになった。通路を一本道にしたのには狙いがあった。買うつもりの無かった品も、前を通れば目に入る。

自分で給油するセルフサービスのガソリンスタンド
自分で給油するセルフサービスのガソリンスタンドWikimedia Commons Airman 1st Class Andrew Lee · Public domain

店員が減れば、値段を下げられる。サンダースは掛け売りと配達もやめ、現金で払って自分で持ち帰る商売に徹した。そのぶん安く売り、安さで客を集めた。店は当たり、彼はフランチャイズの形で店を広げた。1923年ごろには、全米で1000店を大きく超えていたとされる。

この方式はすぐに真似された。サンダースの特許はあったものの、客に棚から選ばせるという考えそのものは止めようがなく、各地の食料品店や大きな食料品チェーンが次々にセルフサービスの売り場を取り入れていった。

日本・京都駅にある清涼飲料の自動販売機
日本・京都駅にある清涼飲料の自動販売機Wikimedia Commons Marek Ślusarczyk ( Tupungato ) Photo gallery · CC BY 3.0

予想しなかった変化も起きた。それまでは「小麦粉をください」と言えば済み、どの銘柄を渡すかは店員が決めていた。棚の前で客が自分で選ぶようになると、品物の箱そのものが客に語りかけなければならない。包装の意匠と、全国に流れる広告が急に重みを増した。19世紀の末に石鹸の会社が始めた大がかりな宣伝(石鹸と広告)は、ここで食料品にも広がっていく。銘柄、いまで言うブランドが、棚の上で力を持ちはじめたのである。衝動買いも増えた。客は見たものを買う、とサンダース自身が考えていた。一方で、万引きという新しい問題が生まれ、それはこの売り方に付きまとう費用になった。

セルフサービスの次の段階は、規模だった。1930年、ニューヨークのクイーンズで、マイケル・カレンがキング・カレンという店を開いた。空いた倉庫を安く借り、内装に金をかけず、大量に仕入れて安く売る。広い駐車場を付け、車で来てまとめ買いする客を呼んだ。これがスーパーマーケットの始まりとされることが多いが、何をもってスーパーマーケットと呼ぶかで答えは変わる。サンダースが客に自分で選ばせる仕組みを作り、カレンがそこに規模と安さと駐車場を足した、と見ることもできる。1937年にはオクラホマでショッピングカートが生まれ、客が一度に買う量はさらに増えた。

サンダース本人の運命は、店の成功とは逆の道をたどった。1923年、ピグリー・ウィグリーの株が空売りを仕掛けられると、彼は借金をして自社株を買い集め、相手を追い詰めた。ところがニューヨーク証券取引所が株の受け渡しの期限を延ばすなど異例の措置を取り、彼は株価の下落に巻き込まれて破産した。会社の経営からも退くことになった。メンフィスに建てていた桃色の大理石の大邸宅は未完成のまま人手に渡り、のちに市の博物館になった。いまもピンク・パレスの名で親しまれている。

彼はその後も新しい店を何度も起こした。前の会社に自分の名を使わせてもらえず、「クラレンス・サンダース、わが名のただ一人の持ち主」という長い名の店を作ったが、大恐慌の中で潰れた。晩年には、客が見本の棚で鍵を差し込むと、奥の倉庫から品がベルトで運ばれてくる自動の店ケドゥーズルを構想し、1930年代と1940年代の終わりに試したが、機械がうまく働かず成功しなかった。1953年、72歳で世を去ったとき、かつての富はほとんど残っていなかった。

それでも、彼が考えた店の形は、世界中に広がった。客が通路を歩き、棚から自分で品を選び、出口でまとめて払う。日本でも戦後、1950年代にセルフサービスの食料品店が現れ、スーパーマーケットの時代が始まる。いまのコンビニエンスストアも無人の店も、客に選ぶ仕事を任せたメンフィスの小さな店の延長線上にある。急速冷凍のような包装された食品が棚を埋めていったのも、客が自分で手に取る売り場があってのことだった。

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