塩ダラ
概要
ニューファンドランド沖の浅瀬には、底が見えないほどのタラがいた。十六世紀、バスク、ポルトガル、フランス、イングランドの漁師たちが毎年大西洋を渡り、夏のあいだタラを釣った。タラは脂が少ないので、塩をして浜の棚で風に干せば、板のように固くなって何年も持つ。塩の豊かな南の国の船は塩をたっぷり使い、塩の乏しいイングランドの船は陸に上がってよく干した。干しダラは船乗りの食料になり、カトリックの国々の断食の日の食卓に並び、やがて西インドの農園で働かされる人々の食べ物にもなった。
場所
47.57°N -52.68°E · カナダ・ニューファンドランド
本文
北アメリカの東の端、ニューファンドランド島の南東の沖に、グランドバンクスと呼ばれる浅瀬が広がっている。大陸棚が海へ大きく張り出し、水深は数十メートルほどしかない。南から来る暖かいメキシコ湾流と、北から下ってくる冷たいラブラドル海流がここでぶつかり、栄養の多い水がかき混ぜられる。小さな生き物が湧き、それを食べる魚が集まる。中でも多かったのがタラである。
1497年、イングランド王の許しを得たジョン・カボットの船がこの海に来た(カボットのニューファンドランド到達)。ロンドンにいたミラノの外交官が本国へ送った手紙には、乗組員の話として、海は魚であふれ、網だけでなく、石を重しにした籠を下ろしても引き上げられるほどだった、と書かれている。話は誇張を含んでいるだろうが、ヨーロッパの漁師たちが聞き逃さない話だった。カボットより前から、バスクの漁師がひそかにこの漁場に通っていたという話もあるが、確かな記録は見つかっていない。

十六世紀に入ると、ヨーロッパ各地の漁船が毎年大西洋を渡るようになる。ポルトガル、バスク、フランスのブルターニュやノルマンディー、そしてイングランド西部のデヴォンやドーセットの港。船は春に出て、夏のあいだ漁場で釣り、秋に帰る。漁は網ではなく、一人一人が舷側から釣り糸を垂らす手釣りだった。世紀の後半には、一つの夏にこの海へ来る船は数百隻にのぼったとされる。
タラが遠くまで運べる魚だったのは、脂が少ないからである。ニシンやイワシのように脂の多い魚は、干すと脂が酸化して傷む。タラの身はほとんどが水と蛋白質で、塩をして水分を抜けば、板のように固くなって何年も持つ。冷蔵の手段のない時代に、これほど保存のきく動物性の食べ物は少なかった。

塩をどう使うかで、国ごとにやり方が分かれた。ポルトガル、スペイン、フランスには、日差しの強い海辺で海水を干して作る安い塩があった。これらの国の船は、釣ったタラを船の上で開き、塩をたっぷり振って船倉に積み重ね、湿ったまま持ち帰った。一方、イングランドは塩を自前で十分に作れず、高い塩を買わなければならなかった。そこでイングランドの漁師は陸に上がった。浜に魚を捌く小屋を建て、木の枝で干し棚を組み、塩を控えめにしたタラを、何週間も風と日に当ててよく干した。
この違いが、のちの島の歴史を分けた。陸に上がるには、よい浜を確保しなければならない。毎年先に着いた船の船長が、その夏の浜の割り振りを仕切る慣わしができ、冬のあいだ小屋と棚を見張るために島に残る者も出てきた。1583年には、イングランドのハンフリー・ギルバートがセントジョンズの港で、女王の名においてこの地の領有を宣言している。漁のための足場が、やがて定住の始まりになった。

干しダラの行き先は三つあった。一つは船乗りの食料である。長い航海に持っていける食べ物として、軍艦にも商船にも積まれた。二つ目は、カトリックの国々の食卓である。教会の暦には、金曜日や四旬節など、肉を断って魚を食べる日が年に百日を超えるほどあった。内陸に住む人々にとって、その日の魚は干した魚か塩漬けの魚しかない。ポルトガルの「バカリャウ」、スペインの「バカラオ」は、いまもそれぞれの国の代表的な料理である。イングランドの船は、自国でさばききれない干しダラをスペインやポルトガル、地中海の港へ運び、ワインや果物、塩と換えて持ち帰った。
三つ目の行き先は、十七世紀に入ってから大きくなる。カリブの砂糖プランテーションが広がると、農園主は奴隷にされた人々の食べ物として、安い蛋白源を大量に必要とした。干し方や身の悪い、ヨーロッパでは売れない等級のタラが、カリブの島々へ送られた。砂糖と糖蜜は北へ、干しダラは南へ、そして人々はアフリカから西へ。タラは、大西洋奴隷貿易を含む大西洋の交易の輪の一つになっていた。ジャマイカなどカリブの料理に、いまも塩ダラを使うものが多いのは、この時代の名残である。

タラは尽きることがないと、五百年近く信じられてきた。だが二十世紀の後半、大型のトロール船が海底をさらい、船の上で冷凍まで済ませる工場船が現れると、獲れる量は桁が変わった。1992年、カナダ政府はニューファンドランド沖の北部のタラ漁を一時的に止めると決めた。一時的のはずだったが、群れは戻らず、禁漁は長く続いた。漁で暮らしていた三万人ほどが職を失ったとされる。政府は2024年に商業漁業の再開を認めたが、漁獲の枠はかつての量に遠く及ばない。
同じように大量の魚で人を集めたスコーネのニシン市では、ニシンの群れが自分から去っていった。グランドバンクスのタラは、人が獲り尽くした。北大西洋のタラをめぐっては、アイスランドとイギリスが漁場を争ったタラ戦争も起きている。いくらでもあると思われた資源にも限りがある、という教訓を、この海は遅れて示した。