インカによるチムー併合
概要
山からの水路を断たれ、戦わずに降伏したと伝わる。海岸最大の国が、山の国に呑まれた。
場所
-8.11°N -79.07°E · ペルー・ラ・リベルタ県
本文
ペルーの北部の海岸は、雨がほとんど降らない砂漠である。そこに人が住み、畑を作れるのは、アンデスの山から太平洋へ流れ下る川があるからだ。川は谷ごとに緑の帯を作り、人々はその水を長い水路で引いて、砂漠に畑を広げてきた。こうした谷を束ねて、海岸で最大の国を築いたのがチムー王国である。
チムーの中心は、モチェ川の河口近くにあった都チャン・チャンだった(チャン・チャンの造営)。日干しれんがで造られた町は20平方キロメートルを超え、高い壁で囲まれた広大な区画が十ほども並んでいた。王はそれぞれ自分の区画を築き、死ぬとそこが墓になり、次の王はまた新しい区画を造ったと考えられている。14世紀から15世紀にかけて、チムーは谷から谷へ支配を広げ、北は今のエクアドルとの国境近くから、南はリマの北まで、海岸の1000キロ近くを従えた。スペイン人が後に聞き取った王統の伝えによれば、最も大きく領土を広げたのは、ミンチャンサマンという王だった。

チムーが強大になったのと同じ頃、南の山地ではインカの拡大(インカ帝国の拡大)が始まっていた。クスコの小さな国だったインカは、15世紀なかばにパチャクテクのもとで周りの国々を次々と従え、その子トゥパク・インカ・ユパンキが軍を率いて北へ進んだ。山地を北へたどり、今のエクアドルに近いあたりまで達したインカ軍は、そこから海岸へ下り、チムーの領土の側面に出た。
インカとチムーの戦いのくわしい経過は分かっていない。伝わっているのは、スペイン人の記録者たちが16世紀にインカの側から聞き取った話である。それによれば、チムーは一度はインカ軍に抵抗したが、インカが山の上流で川の水を押さえ、水路への水を断つと脅したため、降伏に追い込まれたという。海岸の農業が山の水にすべて頼っている以上、上流を押さえた者が下流の命を握る。話としてはよくできているが、どこまで実際の経過なのかは確かめようがない。チムーの側の言い分は残っておらず、勝った側の誇張が混じっている可能性もある。征服の年代も、1460年代から1470年ごろまで幅をもって語られる。

確かなのは、インカがチムーの支配層をそのまま残さなかったことである。王のミンチャンサマンはクスコへ連れて行かれ、その子が名目だけの領主として置かれたと伝わる。チャン・チャンは都としての役割を失い、チムーの富の多くはクスコへ運ばれた。
インカがとくに欲しがったのは、チムーの職人だった。チムーの金銀細工は、先行するランバイェケ(シカン)の伝統を受け継ぎ、薄く打ち延ばした金の板で冠や耳飾り、器を作る技術で知られていた。インカは金属細工の職人たちをクスコへ移住させ、宮廷のための工芸品を作らせた。インカの金銀細工として知られる品の中には、こうしたチムー出身の職人の手になるものが多いと考えられている。征服した土地から技術者を集め、帝国のために働かせるのは、インカが各地で行ったやり方だった。反抗しそうな集団を遠くへ移し、忠実な集団を新しい土地へ入れる移住の政策も、広く使われている。

チムーの征服によって、インカは海岸の豊かな谷と、その灌漑の技術、職人、そして漁業や海の資源を手に入れた。インカの道路網(インカ道)は海岸にも延び、山と海の産物を結びつけた。海岸最大の国を呑み込んだことで、インカは名実ともにアンデス全体の帝国になった。
ただ、それから60年あまりのち、インカ自身がスペイン人に倒される(インカ帝国の滅亡)。チャン・チャンはスペイン人に掘り返されて金銀を奪われ、雨の少ない土地で数百年を耐えた日干しれんがの壁も、まれに来る大雨で崩れ続けている。1986年に世界遺産に登録されたが、同時に危機遺産にも入れられた。かつて海岸を支配した国の都は、今は風と雨にさらされて少しずつ形を失っている。