アマゾンの黒い土
概要
痩せた熱帯の土の中に、人の手で作られた真っ黒な肥沃地が広がっている。手つかずの原生林と思われていた場所に、大勢が住んでいた証拠になる。
場所
-2.44°N -54.71°E · ブラジル・パラー州(アマゾン川とタパジョス川の合流点)
本文
アマゾンの土は、見かけによらず痩せている。熱帯の強い雨が養分を洗い流し、落ち葉はすぐに分解されて土にたまらない。森がうっそうと茂るのは、養分が土ではなく生きた植物の体の中を回っているからだ。だから大勢の人を長く養うことはできない、と長く考えられてきた。
20世紀の半ばには、この考えが学説として固まった。アメリカの考古学者ベティ・メガーズは1971年の著書でアマゾンを「偽りの楽園」と呼び、痩せた土のもとでは小さな村しか成り立たなかったと論じた。アマゾンは人の手がほとんど入っていない原生林だ、という見方は、研究者にも一般にも広く受け入れられた。

ところが、川沿いの台地に、黒い土が帯や塊になって広がっている場所がある。ポルトガル語でテラ・プレタ(黒い土)と呼ばれる。深さは数十センチから2メートルに及ぶことがある。19世紀には旅行者や地質学者がすでに気づいていたが、本格的に調べられたのは20世紀の後半、オランダの土壌学者ヴィム・ソンブルックの研究からである。
黒い色のもとは炭である。完全には燃えきらない低温で焼かれた炭が細かく混ざり、そこに土器のかけら、魚や獣の骨、貝殻、人と動物の糞、食べ物の残りが重なっている。周りの赤や黄色の土に比べて、窒素やリン、カルシウムがずっと多い。炭は養分を吸いつけて雨に流されにくくし、微生物のすみかにもなる。自然にできたものではなく、人が長く住み、ごみを捨て、火を使い続けた跡である。居住地のまわりには、それより色の薄い「茶色の土」が広がることもあり、畑として手を入れた跡と考えられている。

黒い土の層からは、しばしば土器が大量に出る。アマゾン河口のマラジョ島では、彩色した大きな骨壺や、人が盛り土をした小高い丘の上の集落が見つかっている。南のシングー川の上流では、20世紀の終わりから、村々を道と堀で結んだ集落の網の跡が調べられてきた。黒い土は、こうした発見と重なり合いながら、アマゾンの過去の見方を変えていった。
年代は、古いものでBC5世紀ごろにさかのぼる。多くは紀元後のもので、ヨーロッパ人が来る前(コロンブスの到達)まで作られ続けた場所もある。ブラジルのサンタレン周辺、タパジョース川がアマゾン本流に合わさるあたりには、とくに大きなものが集まっている。広さの推定には大きな幅があり、アマゾン全体の1%に満たないとする見方から、それよりはるかに広いとする説まである。
黒い土があるということは、そこに大勢が長く住んでいたということだ。1542年、スペイン人オレリャーナの一行がアマゾン川を下ったとき、同行した修道士カルバハルは、川岸に村が何日も途切れずに続き、大勢の兵が出てきたと書いた。一行は食べものに困って村を襲い、女たちが男とともに戦う姿を見たとも記した。川の名がギリシア神話の女戦士アマゾンからとられたのはこのためである。こうした話がまじるせいもあって、この記録は長く誇張とされてきた。その後の探検者が同じ川を下ったとき、もうそんな村は見当たらなかったからだ。だが、黒い土の分布は、それが作り話ではなかった可能性を示している。その後の100年で、ヨーロッパから持ち込まれた病気が先に川をさかのぼり、人口が激減して村が森に飲み込まれた、と考える研究者が多い(コロンブス交換)。
黒い土は、いまも作物がよく育つ。地元では掘り出して園芸用の土として売られている。掘ったあとに、数年でまた黒い土ができてくるという話もあるが、これは確かめられていない。なぜ何百年も肥沃さが保たれるのか、どうすれば同じものを作れるのかは、まだ十分には分かっていない。炭を土に混ぜて土を肥やし、同時に炭素を土の中にためこむ方法として、農学や気候対策の分野でも関心を集めている。
チャールズ・マンは『1491』で、このテラ・プレタを、アマゾンは手つかずの自然だという思い込みへの反証として取り上げた(物語「『1491』『1493』で読む新大陸」)。いま「原生林」に見える森の一部は、かつての人びとが手をかけた庭や果樹園の名残かもしれない。どこまでがそうなのかは、論争が続いている。