概要
ハリコフ近郊生まれ。第二次大戦の末期に赤軍でベルリンに入り、燃える図書館からマヤの写本の複製本を持ち出した、という有名な話がある(本人は後に、単に図書館から支給されたと否定した)。レニングラードの民族学研究所で、ランダ司教の「アルファベット」を音節表として読み直し、1952年に発表した。西側の権威トンプソンに罵倒され、無視された。彼が実際にマヤの遺跡を訪れられたのは、1990年、68歳のときである。愛猫アシャを共著者として論文に載せようとして、編集部に断られた。
関わったできごと(1)
マヤ文字の解読AD1952年 · 読んだ本文
1922年11月19日、ハリコフ(現ウクライナのハルキウ)近郊の村ピヴデンネ。父は鉄道技師、母は医学を学んだ女性。
(彼は自分の生年月日を1922年11月19日と記していたが、出生証明書は8月31日である。理由は不明。)
5人兄弟。全員が、後に学位を得た。
彼は変わった子どもだったと伝えられる。学校の成績にむらがあり、バイオリンを弾き、詩を書き、絵を描いた。
**戦争**。
1940年、モスクワ大学歴史学部へ。専攻は**エジプト学とシャーマニズム**。
1941年、ドイツの侵攻。彼はハリコフの実家に戻っていた。占領下で過ごし、1943年に赤軍に加わった(健康上の理由で戦闘部隊ではなく、砲兵の測量要員だったとされる)。
**ベルリンの本**。
有名な逸話がある。
1945年、赤軍の一員としてベルリンに入った彼が、**燃えるプロイセン国立図書館**から、二冊の本を持ち出した。
一冊は、**ランダ司教の『ユカタン事物記』**。もう一冊は、**マヤの三写本の複製版**(ドレスデン、マドリード、パリ)。
この二冊が、彼の生涯を決めた。
**本人は、後年、これを否定した**。
「私は図書館から本を盗んでいない。**あれは、モスクワの図書館にあったものだ**」。
彼の部隊がベルリンにいたかどうかについても、記録に食い違いがある。
(伝説は、おそらく彼自身が若い頃に語った話が独り歩きしたものである。真相ははっきりしない。)
**レニングラード**。
戦後、モスクワ大学に戻り、卒業。
彼は、中央アジアのシャーマニズムに関する研究をしていたが、指導教官が「解読不能とされている文字をやってみないか」と勧めた、と言われる。
(一説には、彼が「不可能と言われていることを、やってみたい」と自ら選んだ。)
1948年頃から、マヤ文字に取り組んだ。
1953年、**レニングラードの民族学研究所**(ミクルーホ=マクライ記念)に職を得た。以後、生涯、ここに勤めた。
**制約**。
(1)**彼はマヤの地に行けなかった**。ソ連の研究者に、中米への渡航許可は下りない。
(2)**資料が乏しい**。彼が持っていたのは、写本の複製と、限られた出版物だけである。
(3)**言語**。彼は、現代のマヤ語話者に会ったことがなかった。文献から学んだ。
彼が使えたのは、**論理**だけだった。
**1952年の論文**。
『ソビエト民族学』誌。「古代アメリカの文字」。
主張の核心。
**すべての表語文字体系は、表語文字と表音文字の混合である**。
エジプト聖刻文字も、シュメール楔形文字も、漢字も、そうである。純粋に表意的な文字体系は、歴史上、存在しない。話し言葉を書き写せない体系は、文字ではない。
そして、**記号の数**。
- アルファベット:20〜35 - 音節文字:50〜100程度 - 表語文字と音節文字の混合:数百〜千
マヤ文字は**約800**。だから、混合型である。
**ランダの表**。
長く「役に立たない」とされていた「ランダのアルファベット」を、彼は読み直した。
ランダは、情報提供者に「**この文字を、あなた方はどう書くか**」と尋ねた。
情報提供者が答えたのは、スペイン語のアルファベットの**名前の音**である。「be」「ce」「hache」「ele」。
だから、あの表は、アルファベットではなく、**音節の表**だったのである。
**実証**。
ドレスデン写本の、絵と文字が並んでいる箇所。
七面鳥の絵の横のグリフを、ランダの表から **cu-tz(u)** と読む。マヤ語で七面鳥は **cutz**。
犬の絵の横 → **tzu-l(u)** → **tzul**(犬)。
さらに、彼は規則を見出した。マヤ語の多くの語は CVC(子音・母音・子音)の形をしている。それを CV-CV の二つの音節文字で書き、**最後の母音は発音しない**。そして、その最後の母音は、多くの場合、最初の母音と同じものが選ばれる(**調和母音**)。
**攻撃**。
論文が出た1952年は、冷戦の最中である。
当時のソ連の慣例に従い、論文の冒頭には、エンゲルスと、スターリンの言語学論文(1950年)への言及があった。
西側の研究者は、これを見て「イデオロギー的宣伝」と判断した。
そして、マヤ学の絶対的権威**J・エリック・S・トンプソン**が、激烈に攻撃した。
トンプソンは、公開の書簡と論文で、クノロゾフを名指しで嘲弄した。「マルクス主義の教条」「机上の空論」「マヤ文字を読んだこともない者の妄言」。
トンプソンの権威は絶大だった。彼に逆らって職を失う可能性を、若い研究者は恐れた。
以後**20年**、西側で、クノロゾフの説は無視された。
**転回**。
1958年、**ハインリヒ・ベルリン**が、都市ごとの「紋章グリフ」を発見。
1960年、**タチアナ・プロスクリャコフ**(ロシア系アメリカ人)が、石碑の日付の配列から、それが**王の誕生と即位**の記録であることを示した。
石碑は、暦の瞑想ではなく、**王の伝記**だった。
1970年代、若い世代——**リンダ・シーリ**、**デイヴィッド・スチュアート**、**ピーター・マシューズ**、**フロイド・ラウンズベリー**——が、クノロゾフの方法を使って、猛烈な速さで読み進めた。
1973年、パレンケの学会で、シーリとマシューズが、一晩でパレンケの歴代の王の名と即位年を読み上げた。
トンプソンは1975年に死んだ。彼は最後まで、音節説を認めなかった。
(ただし、彼は死の前に、自分の見解が覆されつつあることを認識していた。彼は皮肉に書いている。「2000年になったら、私の書いたものは、誰も読まないだろう」。)
**マヤへ**。
クノロゾフが、実際にマヤの遺跡に立ったのは、**1990年**である。
**68歳**。グアテマラのセレソ大統領が招待した。
彼はティカルのピラミッドに登った。「私は理論家だ。現地に行く必要はない」と言い続けていた男が、である。
1992年、メキシコから**アステカの鷲勲章**(外国人に与えられる最高の栄誉)。1995年、グアテマラから大十字勲章。
授賞式で、彼は言った。「**私の心は、いつも、マヤとともにあった**」。
**猫**。
彼は、猫を愛した。
愛猫**アシャ**(アーシャ)を、自分の論文の**共著者**として記載しようとした。編集部が削除した。
彼は、本気で腹を立てた。「彼女は、私の考えの多くに寄与している」。
彼の最も有名な写真は、アシャを胸に抱いたものである。
**晩年**。
ソ連が崩壊し、研究所の資金は途絶えた。
彼は、サンクトペテルブルクの共同住宅に住み、乏しい年金で暮らした。
**1999年3月31日**、病院の**廊下で**、肺炎で死んだ。77歳。
(病室が足りず、廊下に寝かされていた、と伝えられる。)
**2018年**、メキシコのメリダに、彼の像が建てられた。
**猫を抱いた姿**である。