人物

ユーリー・クノロゾフ

Yuri Knorozov
AD1922年11月19日 – AD1999年3月31日(享年76)
ソビエト連邦重要度 4

概要

ハリコフ近郊生まれ。第二次大戦の末期に赤軍でベルリンに入り、燃える図書館からマヤの写本の複製本を持ち出した、という有名な話がある(本人は後に、単に図書館から支給されたと否定した)。レニングラードの民族学研究所で、ランダ司教の「アルファベット」を音節表として読み直し、1952年に発表した。西側の権威トンプソンに罵倒され、無視された。彼が実際にマヤの遺跡を訪れられたのは、1990年、68歳のときである。愛猫アシャを共著者として論文に載せようとして、編集部に断られた。

関わったできごと(1)

マヤ文字の解読AD1952年 · 読んだ

本文

ユーリー・ヴァレンチノヴィチ・クノロゾフは1922年11月19日、ウクライナのハリコフ(いまのハルキウ)近郊の村に生まれた。父は鉄道の技師で、きょうだいは5人。少年は学校の成績にむらがあり、バイオリンを弾き、詩を書き、絵を描く、少し変わった子だったと伝えられる。

ディエゴ・デ・ランダ『ユカタン事物記』(1853年ブラッサー・ド・ブールブール版)の頁。クノロゾフが解読の手がかりとした「デ・ランダ文字表」を含む
ディエゴ・デ・ランダ『ユカタン事物記』(1853年ブラッサー・ド・ブールブール版)の頁。クノロゾフが解読の手がかりとした「デ・ランダ文字表」を含むWikimedia Commons Public domain

1940年、彼はモスクワ大学の歴史学部に入り、古代エジプトとシャーマニズムに関心を持った。翌1941年、ドイツ軍がソ連に攻め込んだとき、彼はハリコフの実家にいて、占領下で暮らした。1943年に赤軍に加わったが、体が弱かったため前線の兵士ではなく、砲兵の測量の係などを務めたとされる。

彼には有名な逸話がある。1945年、赤軍の一員としてベルリンに入った彼が、燃えさかるプロイセン国立図書館から二冊の本を持ち出した。一冊はスペインの司教ランダが16世紀に書いた『ユカタン事物記』、もう一冊はマヤの三つの写本の複製だった。この二冊が彼の生涯を決めた、という話である。だが後年、本人はこれを否定した。本は盗んだのではなく、モスクワの図書館にあったものだという。彼の部隊がベルリンにいたかどうかも、記録が食い違う。若いころの話が独り歩きしたのだろうと見られているが、真相ははっきりしない。

戦後モスクワ大学に戻った彼は、指導教員から、解読できないとされている文字に挑んでみないかと勧められたと言われる。1950年前後から、彼はマヤ文字に取り組み始めた。1953年にはレニングラードの民族学研究所に職を得て、生涯そこに勤めた。

マヤの文字は、マヤ古典期の都市の石碑や神殿の階段、土器、そして樹皮の紙を折りたたんだ本に書かれていた。だがスペインの征服のあと、本の多くは異教のものとして焼かれた。1562年、ユカタンのマニの町で大量の本を焼かせたのは、ほかならぬランダ司教である。焼き捨てた当人が書き残した記録が、のちに解読の鍵になった。いま残る本はわずか4冊しかない。

条件は厳しかった。ソ連の研究者に中米へ渡る許可は下りず、彼はマヤの土地に行けなかった。手元にあるのは写本の複製と限られた出版物だけで、マヤ語を話す人に会ったこともなかった。使えるのは論理だけだった。

1952年、彼はソ連の民族学の雑誌に論文を発表した。主張の核心はこうである。歴史上の文字で、純粋に意味だけを表すものはない。エジプトの聖刻文字も、シュメールの楔形文字も、漢字も、意味を表す字と音を表す字が混ざっている。話し言葉を書き写せないものは文字ではない。そして文字の種類の数を見れば、その仕組みが分かる。アルファベットなら20から35ほど、音節を表す文字なら50から100ほど、意味と音の混ざった文字なら数百から千ほどになる。マヤ文字はおよそ800。だから混合型のはずだ。

彼は、長く役に立たないとされてきた「ランダのアルファベット」を読み直した。ランダはマヤの人に、スペイン語の文字をあなたがたはどう書くかと尋ねた。相手が書いたのは、スペイン語のアルファベットの読み方、たとえば「ベ」や「エレ」という音に当たるマヤ文字だった。つまりあの表は、アルファベットではなく、音節の表だったのである。

彼はそれを確かめた。ドレスデンの写本で、七面鳥の絵のそばにある文字を、ランダの表から「ク」と「ツ」と読むと、マヤ語の七面鳥「クツ」になる。犬の絵のそばの文字は「ツル」、犬である。さらに規則も見つけた。マヤ語の多くの語は「子音・母音・子音」の形をしていて、それを二つの音節の文字で書き、最後の母音は読まない。その最後の母音には、たいてい最初の母音と同じものが選ばれる。

だが時は冷戦のさなかだった。当時のソ連の論文の決まりとして、冒頭にはエンゲルスやスターリンの言語論への言及があった。西側の研究者たちはそれを見て、政治の宣伝だと受け取った。マヤ学の絶対的な権威だったイギリス出身のエリック・トンプソンは、クノロゾフを名指しで激しく攻撃し、あざけった。トンプソンに逆らえば職を失いかねない。若い研究者たちは黙った。以後20年近く、西側でクノロゾフの説は顧みられなかった。

トンプソンの側にも理由はあった。彼はマヤ文字を、話し言葉を写す道具ではなく、暦や神々についての神秘的な観念を表す記号だと考えていた。音で読めるという説は、彼の描いてきたマヤ文明の姿そのものを揺るがすものだった。それでも、ソ連の中でクノロゾフは研究を続けた。1963年には大著『マヤ・インディオの文字』を出し、のちには四つの写本の全訳と注釈を出した。1977年、ソ連国家賞を受けている。マヤ文字の研究のかたわら、イースター島の謎の文字や、インダス文明の文字を計算機で分析する研究にも助言した。

流れを変えたのは、石碑の研究だった。1958年、ハインリヒ・ベルリンが都市ごとの名を表す文字を見つけ、1960年にはタチアナ・プロスクリアコフが、石碑の日付の並びから、そこに刻まれているのが王の誕生や即位の記録だと示した。石碑は暦の瞑想ではなく、王たちの歴史だった。1970年代、リンダ・シーリやピーター・マシューズ、フロイド・ラウンズベリーら若い世代がクノロゾフの方法を使い、猛烈な勢いで読み進めた。1973年のパレンケでの会議では、パカル王をはじめとするパレンケの歴代の王の名と年代が、一日のうちに読み解かれた(マヤ文字の解読)。トンプソンは1975年に死ぬまで、音節の説を認めなかった。

クノロゾフが初めてマヤの遺跡に立ったのは、1990年である。68歳の彼は、グアテマラの大統領に招かれてティカルのピラミッドに登った。理論家に現地へ行く必要はない、と言い続けてきた男だった。その後、メキシコやグアテマラから勲章が贈られた。

彼は猫を愛した。シャム猫のアシャを論文の共著者に加えようとして、編集部に削られ、本気で腹を立てたという。彼の最も有名な写真は、アシャを胸に抱いた姿である。

ソ連が崩れると、研究所の資金は途絶えた。彼はサンクトペテルブルクの共同住宅で乏しい年金で暮らし、1999年3月31日、肺炎のため病院で死んだ。76歳だった。病室が足りず、廊下に寝かされていたと伝えられる。いまメキシコのユカタン州の州都メリダには、猫を抱いた彼の像が立っている。マヤの人々の言葉を、一度も話したことのない男が読み解いた。そしていま、マヤ語を話す人々が、祖先の文字を学び直している。

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