できごと

テノチティトランの陥落

Fall of Tenochtitlan
AD1521年
重要度 5
テノチティトランの陥落に関わる図版:Conquista-de-México-por-Cortés-Tenochtitlan-Painting
Conquista-de-México-por-Cortés-Tenochtitlan-Painting Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

概要

アステカが滅びた。決め手は武器よりも、持ち込まれた疫病だった。

場所

テノチティトラン
19.43°N -99.13°E · メキシコ・メキシコシティ

関わった人(3)

マリンチェAD1500年頃–AD1529年頃 · 通訳エルナン・コルテスAD1485年–AD1547年12月2日 · スペイン側 · 総指揮モクテスマ2世AD1466年頃–AD1520年 · アステカ側

本文

テノチティトランは、メキシコ盆地のテスココ湖に浮かぶ島に築かれた都だった(テノチティトランの建設)。湖の上を走る三本の堤道で岸と結ばれ、水道橋が山から真水を運び、碁盤の目のような運河を小舟が行き交った。人口は20万前後と見積もられることが多く、当時のヨーロッパのどの都市にも引けを取らない。都を初めて目にしたスペイン兵の一人ベルナル・ディアスは、騎士道物語に出てくる魔法の世界のようだったと回想している。

その都を中心に、アステカ(メシーカ)は周りの多くの都市を従え、重い貢納を取り立てていた。戦争で捕らえた者を神々への生贄として捧げることも、支配される側の恨みを深めていた。

コンキスタドール、ペドロ・デ・アルバラード
コンキスタドール、ペドロ・デ・アルバラードWikimedia Commons Tomás Povedano · Public domain

1519年、エルナン・コルテスが率いるスペイン人は、キューバから現在のメキシコ湾岸に上陸した。兵は500人ほど、馬は十数頭にすぎない。だがコルテスには、二人の通訳がいた。マヤ語を覚えたスペイン人と、ナワトル語とマヤ語を話せる先住民の女性マリンチェである。彼女は通訳を超えて、交渉の相手の考えを読み、コルテスに助言する役目を果たした。

マリンチェは、少女の頃に親の手で売られ、マヤ語の地域で奴隷として育ったとされる。スペイン人に贈られた20人の女性の一人で、洗礼を受けてドニャ・マリーナと呼ばれた。先住民の絵文書には、コルテスの横に立って言葉を伝える彼女の姿が繰り返し描かれている。独立後のメキシコでは、外国にすり寄る裏切り者の代名詞として語られた時期が長かったが、近年は、奴隷の身から自分の生き残りを図った一人の女性として見直されている。

「悲しき夜」(ラ・ノチェ・トリステ)
「悲しき夜」(ラ・ノチェ・トリステ)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

コルテスは内陸へ向かう途中、アステカと敵対していたトラスカラと戦い、やがて同盟を結んだ。トラスカラは、その後の戦いで数万の兵を出すことになる。1519年11月、コルテスはテノチティトランに入り、皇帝モクテスマ2世に迎えられた。モクテスマはスペイン人を賓客として宮殿に住まわせたが、コルテスはまもなく皇帝を人質に取った。

1520年の春、コルテスがキューバの総督から送られた討伐隊を迎え撃つために都を離れた隙に、残ったアルバラドの部隊が祭りに集まったアステカの貴族たちを虐殺した。都は蜂起した。モクテスマはこの混乱の中で死ぬ。スペイン側は自分の民の投石で死んだと書き、先住民の側の記録はスペイン人に殺されたと伝える。どちらが正しいかは分からない。6月の末の夜、スペイン人は都から逃げ出した。堤道で襲われ、運び出そうとした金を抱えたまま湖に沈んだ者も多い。スペイン人はこの夜を「悲しき夜」と呼んだ。

オトゥンバの戦い
オトゥンバの戦いWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ここで歴史を変えたのが病である。討伐隊とともに天然痘が持ち込まれ、1520年の秋、テノチティトランを襲った(天然痘のアメリカ大陸上陸)。モクテスマの後を継いだ皇帝クイトラワクも、即位から80日ほどでこの病で死んだ。免疫を持たない人々の間で、天然痘は戦いとは桁の違う死をもたらした。包囲が始まる前に、都の人口は大きく減っていた。

征服の後、スペイン人の修道士サアグンは、ナワトル語を話す先住民の古老たちから聞き取りを重ね、征服の経過を彼らの言葉で記録させた(『フィレンツェ絵文書』として知られる)。そこには、体中に吹き出物ができ、横たわったまま身動きもできずに死んでいく人々の様子が書かれている。征服を負けた側から語る、数少ない記録である。

『トラスカラ史』に描かれたスペイン軍とアステカ軍の戦闘
『トラスカラ史』に描かれたスペイン軍とアステカ軍の戦闘Wikimedia Commons Public domain

トラスカラで態勢を立て直したコルテスは、湖を制するために、組み立て式の帆船13隻を造らせ、陸路で湖岸まで運んだ。1521年の5月末から、スペイン人と先住民の同盟軍は都を包囲し、水道橋を断ち切った。新しい皇帝クアウテモクのもと、アステカの人々は飢えと渇きと病の中で、一つ一つの通りを奪い合うように抵抗した。都の北の市場町トラテロルコが最後の砦になった。

8月13日、小舟で逃れようとしたクアウテモクが捕らえられ、都は落ちた。包囲の日数は80日とも93日とも言われる。廃墟には死体が積み重なり、征服者の側の記録にもその凄惨さが書き残されている。クアウテモクは後に、コルテスの遠征に同行させられた途中で処刑された。

コルテスがテノチティトラン包囲に向け小型帆船を建造する様子
コルテスがテノチティトラン包囲に向け小型帆船を建造する様子Wikimedia Commons Diego Durán · Public domain

神殿は崩され、その石で教会や総督の館が建てられた。大神殿のあった場所のすぐそばに、今のメキシコシティの大聖堂が立っている。湖はその後の数百年をかけて干拓され、都の跡は大都市の地面の下に消えた。1978年、電気工事の作業員が大神殿の遺構に連なる巨大な石彫を掘り当て、発掘が始まっている。

決め手は、武器よりも同盟と疫病だった。数百人のスペイン人だけでは、湖の都は落とせなかった。だが征服者に協力した都市も、その後まとめてスペインの植民地に組み込まれ、ヌエバ・エスパーニャの一部になった。疫病はその後も繰り返し流行し、メキシコ中央部の先住民の人口は、16世紀の間に何分の一にも減ったと推計されている(コロンブス交換)。

出典(5)

ベルナルディーノ・デ・サアグンとナワの筆記者たち 『フィレンツェ絵文書』第12書
ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之 訳) 『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』第15章 科学と帝国の融合
ジャレド・ダイアモンド(倉骨彰 訳) 『銃・病原菌・鉄 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』第18章 旧世界と新世界の遭遇
ウィリアム・H・マクニール(佐々木昭夫 訳) 『疫病と世界史』第5章 大洋を越える交流
エドゥアルド・ガレアーノ(大久保光夫 訳) 『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』第1部

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