タバコの伝播
概要
アメリカ大陸原産。先住民が儀礼と医療に使っていた。コロンブスの一行が持ち帰り、当初は薬として広まった。フランス大使ジャン・ニコがカトリーヌ・ド・メディシスに勧めたことから、ニコチンの名が付いた。100年でユーラシア全域に達した。オスマン、ムガル、明、そして日本。各地の君主が禁じ、破れば死罪とした例もある。誰も止められなかった。植民地の主要な換金作物になり、ヴァージニアの奴隷制の基礎になった。
場所
37.39°N -5.98°E · スペイン
本文
タバコはアメリカ大陸の植物である。広く栽培されることになる種は南アメリカのアンデス山脈の東のふもとが原産とされ、北アメリカでは、葉が強く荒い別の種が古くから育てられていた。人がタバコを栽培し始めたのは数千年前にさかのぼる。
アメリカの先住民にとって、タバコは日々のなぐさみというより、神聖な草だった。北アメリカの人々は、和平や約束を交わすときに聖なるパイプを回して吸った。煙は祈りを天に届けるものと考えられ、神々への供え物として燃やされた。傷に当てたり、痛みを和らげたり、虫を追ったりする薬でもあった。南アメリカの呪医は大量のタバコを摂って、深い恍惚の状態に入った。マヤの土器や浮き彫りにも、煙を吸う神や人の姿が描かれている。

ヨーロッパ人がこの草に出会ったのは、1492年10月のことである。コロンブスの到達の直後、コロンブスの一行は、カリブの島の人々が乾いた葉を巻いて火をつけ、煙を吸っているのを見た。一行の船員ロドリゴ・デ・ヘレスはそれを試し、ヨーロッパ人で最初に煙を吸った人とされる。彼がスペインへ帰って口と鼻から煙を吐くのを見た人々が悪魔に取りつかれたと思い、異端審問所が彼を何年も牢に入れた、出てきたときにはスペイン中が煙を吸っていた、という話もあるが、これは後世の伝説の色が濃い。
16世紀のヨーロッパで、タバコはまず薬草として広まった。フランスの外交官ジャン・ニコは、リスボンに駐在していた1560年ごろ、タバコの葉や粉をフランスの王太后カトリーヌ・ド・メディシスに送った。頭痛に効くと勧めたとされ、粉を鼻から嗅ぐやり方が宮廷で流行した。タバコの属名ニコチアナと、のちに見つかるニコチンという物質の名は、このニコの名に由来する。ニコチンが葉から取り出されたのは1828年、ドイツのハイデルベルクの化学者たちによる。

当時のヨーロッパでは、タバコは頭痛、歯痛、傷、潰瘍、寄生虫、ぜんそくなど、さまざまな病に効くとされた。1665年にロンドンでペストがはやったときには、煙が病を防ぐと信じられ、名門校のイートンでは生徒に喫煙が命じられ、吸わない生徒は鞭で打たれたという話が伝わっている。
広がる速さは驚くべきものだった。タバコはコロンブス交換の流れに乗り、わずか100年ほどで地球を一周した。スペインとポルトガルの船が、地中海、アフリカの西岸、インド、東南アジアへ運んだ。オスマン帝国には16世紀の終わりから17世紀の初めに伝わり、コーヒーの店と結びついて広がり、水を通して煙を冷やす水煙管が発達した。ペルシアやムガル帝国の宮廷でも愛好された。中国には16世紀の終わりから17世紀の初め、マニラを経由する交易などで伝わり、明の末期に急速に広まった。日本には16世紀の終わりごろ、ポルトガル人によって持ち込まれたとされる。「たばこ」という言葉もポルトガル語から来ている。日本では細かく刻んだ葉を小さな火皿に詰め、少しずつ吸うキセルの文化が独自に育った。キセルの語は、東南アジアの言葉で管を意味する語に由来するという説がある。タバコはさらにロシアやシベリアを経て、北の果ての人々にまで届いた。

各地の君主は、これを止めようとした。1604年、イングランド王ジェームズ1世は、自らタバコを攻撃する小冊子を書き、目に忌まわしく、鼻に憎く、脳に害があり、肺に危険だと非難した。彼はタバコの輸入税を一挙に何十倍にも引き上げたが、密輸が増えただけだった。オスマン帝国のムラト4世は1633年、喫煙を死罪とした。彼は自ら変装して町を歩き、喫煙者を見つけて処刑させたと伝えられ、殺された人は数千人にのぼるとも言われる。それでも喫煙はやまず、彼の死後、禁令は緩んだ。ロシアでは1630年代、喫煙者の鼻をそぐ刑が定められた。ところが17世紀の終わり、西ヨーロッパを旅して自らもタバコを覚えたピョートル1世が解禁し、イギリスの商人にタバコを売る独占の権利を与えて金を得た。
東アジアでも事情は同じだった。中国では明の末から清の初めにかけて、たびたび禁令が出されたが効き目はなかった。日本では江戸幕府が1609年ごろから繰り返し禁令を出した。火事の危険と、米を作るべき田畑がタバコに変わることが理由だった。しかし禁令は守られず、やがて幕府や藩はタバコを取り締まるより、税を取る対象として扱うようになった。ローマ教皇も17世紀には教会の中でタバコを使うことを禁じたが、18世紀の前半、自身も嗅ぎタバコを好んだ教皇がその禁令を取り下げた。

なぜ誰も止められなかったのか。ニコチンには強い依存性がある。ニコチンは脳の神経の受け皿に結びつき、快さにかかわる物質を放出させる。依存はとても速く形づくられ、いまでは最も依存性の強い物質の一つとされている。
タバコは、大きな富も生んだ。1607年、イングランドは北アメリカのヴァージニアに、最初の長続きする植民地を作った(ジェームズタウンの建設)。最初の数年、植民地は飢えと病気で全滅しかけた。1612年ごろ、入植者のジョン・ロルフが、カリブ海や南アメリカから取り寄せた、味の穏やかな種類のタバコを植えてみた。現地の先住民が育てていた種類は、ヨーロッパ人の口には荒すぎたのである。試みは当たった。ロルフはのちに、先住民の首長の娘ポカホンタスと結婚した人物でもある。

ヴァージニアからのタバコの輸出は、1617年の2万ポンドほどから、1620年には4万ポンド、17世紀の後半には年に2000万ポンド前後へと膨らんだ。タバコがこの植民地を成り立たせた。一時はタバコそのものが通貨の役目を果たし、給料も税もタバコの重さで払われた。1620年前後には、妻となる女性たちがイングランドから送られてきて、夫になる男はその渡航費をタバコで払ったという。
タバコの栽培には、多くの人手が要る。種をまき、苗を植え替え、芽を摘み、虫を取り、刈り取り、乾かし、選り分ける。すべて手作業である。初めは、渡航費と引き換えに数年働く契約を結んだ、イングランドの貧しい人々がこの仕事を担った。1619年8月には、20人あまりのアフリカ人が船でヴァージニアへ運ばれてきた。初めの彼らの扱いは、年季の契約で働く人々に近かった可能性も指摘されている。しかし17世紀の後半、植民地の法律が整えられ、親から子へ受け継がれる奴隷の身分が確立していった。タバコ、砂糖、綿花は、大西洋奴隷貿易と奴隷制を支えた三つの作物である。

19世紀まで、タバコの害はほとんど意識されていなかった。それを変えたのは紙巻きタバコである。1880年代、アメリカのジェームズ・ボンサックが紙巻きタバコを巻く機械を作った。1台で熟練の職人の何十人分もの紙巻きを作ることができ、紙巻きは安く大量に出回った。パイプや葉巻の煙は口の中で味わうものだが、紙巻きの煙は肺の奥まで吸い込まれる。害は格段に大きくなった。二つの世界大戦では、兵士にタバコが配られた。20世紀の半ばには、アメリカやイギリスの成人男性の多くが煙を吸っていた。
害を示す証拠は、少しずつ積み上がった。1929年、ドイツの医師フリッツ・リッキントが、喫煙と肺癌の結びつきを指摘し、1939年にはドイツで患者と健康な人を比べる研究も出た。ナチス・ドイツは世界で最初に組織的な禁煙運動を進めた国だったが、その研究は戦後長く顧みられなかった。1950年、イギリスのリチャード・ドールとオースティン・ブラッドフォード・ヒル、アメリカのワインダーとグレアムが、それぞれ喫煙と肺癌の強い関連を報告した(喫煙と肺がん)。ドールとヒルは1951年から、イギリスの医師約4万人の喫煙の習慣と健康を、50年にわたって追い続けた。研究に参加した医師たち自身が次々にタバコをやめ、イギリスの医師の喫煙率は世の中より早く下がった。1964年、アメリカ政府は公衆衛生局長官の報告で、喫煙が肺癌の原因であることを公式に認めた(公衆衛生局長官の喫煙報告)。
タバコ会社は、何十年にもわたって疑いを作り出した。1953年、大手の会社が集まり、広報会社の助言を受けて研究の団体を作った。害をきっぱり否定するのではなく、「まだ議論がある」と言い続けるのが戦略だった。1969年のある会社の社内文書には、疑いこそが我々の商品だ、という一行が書かれていた。こうした文書は1990年代の裁判で明るみに出た。1998年、アメリカの46の州と大手のタバコ会社は、25年間で2000億ドルを超える支払いで和解し、膨大な社内文書が公開された。その数千万ページは、いまも大学の文書館で誰でも読むことができる。
世界保健機関の推計では、いまもタバコのために毎年800万人を超える人が死んでいる。そのうち130万人ほどは、自分では吸わずに他人の煙を吸った人々である。20世紀にタバコが原因で死んだ人は1億人と見積もられ、このままでは21世紀には10億人に達するおそれがあると警告されている。豊かな国では喫煙率が下がり続けている一方、売り込みの力はそれ以外の国々へ向かっている。かつて植民地の支配への抵抗の旗印になったこともあるこの草は(タバコ・ボイコット)、500年前、カリブの島でヨーロッパの船乗りが初めて試しに吸ってみた葉である。