オルメカ文明
概要
メソアメリカ最初の高文明。巨石人頭像を残し、暦・球技・神々の型が後の文明に受け継がれる。
場所
18.10°N -94.04°E · メキシコ・タバスコ州(オルメカ)
本文
メキシコ湾の南岸、いまのベラクルス州とタバスコ州にまたがる低地は、川が網の目のように流れ、湿地と熱帯の森が広がる土地である。紀元前1500年ごろから、ここに大きな集落が生まれ、紀元前1200年ごろには、メソアメリカで最初の複雑な社会が姿を現した。これをオルメカ文明と呼ぶ。
「オルメカ」は、彼らが自分たちをそう呼んだ名前ではない。はるか後のアステカの人々が、この地方に住む人々を「ゴムの国の人」と呼んだ言葉から、近代の研究者が借りたものである。オルメカの人々が自らを何と呼んだのか、どんな言葉を話していたのかは、分かっていない。

オルメカの遺跡が知られるようになったのは、19世紀の後半である。1862年、ベラクルス州の農園で巨大な石の頭が掘り出され、報告された。本格的な発掘が進んだのは、1930年代から40年代にかけて、アメリカの考古学者スターリングらがトレス・サポテスやラ・ベンタを掘ってからである。当初はマヤより新しい文化だと考える研究者も多かったが、放射性炭素による年代測定で、マヤよりはるかに古いことがはっきりした。
最初の大きな中心は、サン・ロレンソだった。川沿いの高台を人の手で造成し、その上に建物や広場を設けている。紀元前900年ごろにサン・ロレンソが衰えると、中心は東のラ・ベンタに移った。ラ・ベンタには、土を盛り上げた高さ30メートルほどのピラミッドや、整然と並んだ広場と基壇が築かれた。さらに西のトレス・サポテスも、後の時代まで続いた中心地である。

オルメカを有名にしたのは、巨石人頭像である。これまでに17個が見つかっている。大きいものは高さ3メートルを超え、重さは数十トンに達する。厚い唇と平たい鼻をもつ顔が、ヘルメットのような被り物をつけた姿で彫られている。顔立ちは一つ一つ違い、特定の支配者の肖像だったと考えられている。
材料の玄武岩は、数十キロ以上離れたトゥストラ山地から運ばれた。オルメカの人々は、車輪も、荷を引く大型の家畜も持っていなかった。人の力で丸太やそりを使って引き、川や湿地ではいかだに載せて運んだと考えられている。それだけの人手を動かせる権力が、すでにあったということである。人頭像のなかには、もとは別の大きな石の台座(玉座とも祭壇ともいわれる)だったものを彫り直したと考えられるものもある。

オルメカの美術には、人間とジャガーが混じり合ったような姿の像が繰り返し現れる。翡翠や蛇紋岩を磨いた小さな像や斧、仮面も数多く作られた。ラ・ベンタでは、蛇紋岩の石材を何百トンも地中に埋めた大がかりな奉納の跡や、16体の小さな人形を輪のように並べて埋めた供え物が見つかっている。
近くのエル・マナティという湿地の聖域からは、紀元前1600年ごろにさかのぼるゴムのボールが見つかった。ゴムの木の樹液を固めたものである。のちにメソアメリカ全体に広がる球技が、オルメカの時代にはすでに始まっていたと考えられている。暦や数の体系、ある種の神々の姿など、後のマヤやアステカに見られる要素の多くも、その源をオルメカにたどれるとされる。ただし、マヤで使われた長期暦(マヤの長期暦)をオルメカ自身が使っていたかどうかは、確かではない。
こうしたことから、オルメカはメソアメリカの「母なる文明」と呼ばれてきた。他の地域の文化はオルメカから生まれた、という見方である。これに対して近年は、同じ時代のメキシコの各地にも独自の発展があり、互いに影響し合いながら文明が育った、と考える研究者も多い。オルメカを「母」ではなく、いくつもの「姉妹」の一人と見る立場である。この論争はいまも決着していない。
サン・ロレンソでは、多くの石の像が壊され、まとめて地中に埋められた状態で見つかった。顔を削られたり、首を折られたりしたものもある。政変や征服の跡だという説、役目を終えた像を儀式として葬ったという説などがあるが、理由は分かっていない。

ラ・ベンタは紀元前400年ごろに衰え、やがて放棄された(ラ・ベンタの放棄)。川の流れの変化や、環境の悪化が原因の一つだったとも考えられている。オルメカの中心地が消えた後も、彼らの残した美術や信仰の型は、各地の人々に受け継がれていった。のちにテオティワカンの隆盛やマヤ古典期の都市が栄える、その土台の一つがここにあった。