人物

アタワルパ

Atahualpa
AD1502年頃 – AD1533年7月26日(享年31・推定)
インカ帝国重要度 4

概要

内戦に勝った直後にピサロに捕らえられた。部屋を埋める金を渡したが、処刑される。

所属

インカ帝国

関わったできごと(3)

インカ帝国の拡大AD1438年 · 最後の皇帝カハマルカの戦いAD1532年11月16日 · 捕らえられたインカ帝国の滅亡AD1533年 · インカ側

本文

アタワルパは1502年頃、インカ帝国の皇帝ワイナ・カパックの息子として生まれた。生まれた年も場所もはっきりしない。都クスコで生まれたとする記録と、帝国の北の果てのキト(いまのエクアドルの首都)で生まれたとする記録がある。母がキトの地方の王族だったという説もあるが、確かではない。

アタワルパの肖像
アタワルパの肖像Wikimedia Commons Public domain

父ワイナ・カパックの時代、インカは南北4000キロにわたる大帝国になっていた(インカ帝国の拡大)。皇帝は晩年の多くを、北の辺境、いまのエクアドルでの戦いに費やした。アタワルパは父に従って北にとどまり、帝国で最も強い軍と、その老練な将軍たちに囲まれて育った。

1520年代の半ば、ヨーロッパ人が持ち込んだ天然痘が、彼ら自身より先にアンデスに達した(天然痘のアメリカ大陸上陸)。ワイナ・カパックはこの疫病で急死し、跡継ぎに指名されていた王子もほどなく死んだとされる。都クスコでは、別の王子ワスカルが皇帝の位に就いた。アタワルパは、はじめはキトにとどまって兄に従う姿勢を見せたが、やがて二人の関係は決裂した。帝国を二分する内戦は数年続いた。

アタワルパ(ブルックリン美術館)
アタワルパ(ブルックリン美術館)Wikimedia Commons Public domain

戦場で勝ったのは、父の精鋭を握るアタワルパの側だった。1532年、彼の将軍たちはクスコの近くでワスカルの軍を破り、ワスカルを捕らえた。クスコでは、ワスカルの一族や支持者が大勢殺された。アタワルパ自身は北の高原の町カハマルカにとどまり、温泉に入って勝利の知らせを待っていた。ちょうどそのとき、海岸に上陸した見慣れない者たちが山を登ってくるという報告が届いた。フランシスコ・ピサロの率いる、170人足らずのスペイン人だった。

アタワルパは、彼らを恐れていなかった。インカの道(インカ道)を通じて、彼らの動きは逐一伝わっていた。わずかな人数の異邦人に、何ができるとも思えなかったのだろう。1532年11月16日、アタワルパは数千の従者を連れ、輿に乗ってカハマルカの広場に入った(カハマルカの戦い)。従者たちは、儀礼のための行列として、ほとんど武器を持っていなかった。

カハマルカの戦いに関わる図版:La Captura de Atahualpa - Juan Lepiani 1920s
カハマルカの戦いWikimedia Commons Juan Lepiani · Public domain

スペイン人の側から、修道士が一人進み出て、キリスト教の教えとスペイン王への服従を説き、祈祷書を差し出した。アタワルパはそれを受け取り、開いてみてから、地面に投げ捨てたという。文字というものを知らない皇帝に、その本は何の意味も持たなかった。本を耳に当て、何も話さないではないか、と言って捨てた、という話は、後の時代の記録に出てくるもので、確かな記録ではない。修道士が叫ぶと、隠れていたスペイン人たちが大砲と銃を撃ち、馬で突入した。広場は大混乱に陥り、数千人が殺された。アタワルパは輿から引きずり降ろされ、捕らえられた。

捕らわれたアタワルパは、スペイン人が何より黄金を求めていることを見抜いた。彼は、自分が閉じ込められた部屋を、手を伸ばした高さまで黄金で一杯にし、さらに二部屋分を銀で満たす、と申し出た。ピサロはこれを受け入れた。帝国の各地から、神殿の飾りや器が運ばれてきた。集まった金銀は数か月かけて溶かされ、金だけで6トンほどになったといわれる。アタワルパは捕らわれの身で、スペイン人からチェスを習ったとも伝えられる。その間に、捕らえられていた兄ワスカルが、護送の途中で殺された。アタワルパが命じたものとみられている。

アタワルパの最期
アタワルパの最期Wikimedia Commons Greene, A. B., engraver · Public domain

身代金がそろっても、アタワルパは解放されなかった。スペイン人の間では、インカの軍が皇帝を救いに来るという噂が広がっていた。1533年7月、ピサロはアタワルパを、反乱の企て、兄弟殺し、偶像崇拝などの罪で裁き、火あぶりの刑を言い渡した。インカの人々にとって、遺体を焼かれることは、死後にミイラとして祀られ、生き続ける道を断たれることを意味していた。洗礼を受ければ絞首刑にとどめると言われ、アタワルパは洗礼を受けた。7月26日、彼は絞首刑に処された。30歳前後だった。

アタワルパの処刑は、スペイン人の間でも議論を呼び、本国の国王も不快感を示したとされる。征服の暴力を告発したバルトロメ・デ・ラス・カサスも、この処刑を厳しく批判している。ピサロはその後、インカの王族を傀儡の皇帝に立てながら、帝国を手中に収めていった(インカ帝国の滅亡)。アタワルパはインカの最後の皇帝として、いまもエクアドルやペルーで記憶されている。内戦の勝者として帝国の頂点に立った、そのわずか数か月後に、彼は思いもよらない相手に全てを奪われた。

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