人物

モクテスマ2世

Moctezuma II
AD1466年頃 – AD1520年(享年54・推定)
アステカ重要度 4

概要

アステカ最後の全盛期の王。コルテスを迎え入れ、その混乱のなかで死ぬ。

所属

アステカ

関わったできごと(1)

テノチティトランの陥落AD1521年 · アステカ側

本文

名はモテクソマ・ショコヨツィンという。「ショコヨツィン」は「若い方」の意味で、同じ名を持つ曾祖父モテクソマ1世と区別するための呼び名である。1466年頃、アステカの都テノチティトランの王族に生まれた(1480年頃とする説もある)。父は第6代の王アシャヤカトルだった。

モクテスマ2世の肖像
モクテスマ2世の肖像Wikimedia Commons attributed to Antonio Rodriguez (1636-1691) · Public domain

テノチティトランは、メキシコ盆地の湖に浮かぶ島の上に築かれた都である(テノチティトランの建設)。石の土手道で岸と結ばれ、運河が縦横に走り、中心には神々を祀る大神殿がそびえていた。人口は20万人前後と推定され、当時のヨーロッパのどの都市にも引けを取らない大都市だった。アステカは周辺の都市と同盟を結び、征服した土地から貢ぎ物を取り立てることで、メキシコ中部の大半を支配していた。

若い頃のモクテスマは、神官として修行を積み、戦士としても手柄を立てた。1502年、叔父の後を継いで王(トラトアニ)に選ばれた。即位のとき、彼は謙虚で物静かな人物として知られていたとされる。だが王になると、宮廷を一新した。前の王たちの時代に取り立てられていた平民出身の役人を退け、王の身の回りに仕える者を貴族の子弟に限った。王の前では臣下が目を伏せ、はだしで進み出なければならなかったとも伝えられる。王の権威を高め、身分の秩序を固める改革だった。

1542年のモクテスマの宮殿
1542年のモクテスマの宮殿Wikimedia Commons Public domain

治世の前半には、南のオアハカ方面などへ遠征を重ね、支配の範囲を最大にした。だが、東の山あいにある都市国家トラスカラだけは、最後まで屈服させることができなかった。アステカは捕虜を神々への生け贄に捧げるため、近隣と定期的に戦いを繰り返していた。重い貢ぎ物と生け贄の要求は、支配される側に深い恨みを残していた。

1519年の春、メキシコ湾岸に、スペインのエルナン・コルテスが500人ほどの兵と馬、大砲を率いて上陸した。知らせを受けたモクテスマは、使者を送って金や羽根細工などの豪華な贈り物を届け、都へ来ないよう求めた。だが贈り物は、かえってスペイン人の欲を駆り立てた。コルテスは、通訳となった先住民の女性マリンチェの助けを借りてアステカの内情を知り、アステカに不満を持つ人々を味方に引き入れた。トラスカラは、しばらく戦ったのちにスペイン人と手を結んだ。

モクテスマ2世の肖像(メンドーサ手稿)
モクテスマ2世の肖像(メンドーサ手稿)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1519年11月8日、モクテスマは土手道の上でコルテスを出迎え、都の中に迎え入れた。なぜ戦わずに招き入れたのかについては、説が分かれる。広く知られているのは、モクテスマが、東の海の向こうから帰ってくると伝えられた神ケツァルコアトルの再来だとコルテスを思い込んだ、という説である。だがこの話は、征服から数十年後にスペイン人の修道士たちが集めた記録に多く現れ、征服を神の意思のように見せるために後から作られた説明だ、という批判が強い。コルテス自身が国王に送った手紙には、モクテスマが自ら服属を申し出たとする演説が記されているが、これもコルテスに都合よく書かれたものと見られている。実際には、見慣れない相手の力と狙いを見極めようとした、あるいはアステカの外交の作法に従って客として遇しながら様子をうかがった、と考える研究者が多い。

迎え入れから1週間ほどで、コルテスはモクテスマを捕らえ、宿舎の宮殿に軟禁した。王は捕らわれの身のまま、スペイン人の求めに応じて命令を出し続けた。1520年の春、コルテスが別のスペイン人部隊と戦うために都を離れている間に、残った部下たちが祭りの場に集まったアステカの貴族たちを襲い、多くを殺した。都の人々は武器を取って立ち上がった。

モクテスマ2世の肖像(1892年の挿絵)
モクテスマ2世の肖像(1892年の挿絵)Wikimedia Commons N. Mathew · Public domain

戻ってきたコルテスは包囲され、モクテスマを宮殿の屋上に立たせて、群衆に鎮まるよう呼びかけさせた。スペイン側の記録によれば、群衆はもはや王に従わず、投げつけられた石が当たり、モクテスマはその傷がもとで数日のうちに死んだ。一方、アステカの側に伝わる記録には、スペイン人が王を殺したと書くものがある。どちらが真実なのかは、いまも確かめようがない。1520年6月の末のことで、年齢は生年の説によって40歳ほどとも、50代半ばともなる。

王の死の直後、スペイン人は夜陰に乗じて都から脱出したが、多くの兵を失った。後を継いだ弟のクイトラワクは、スペイン人が持ち込んだ天然痘のために数か月で亡くなった。続く王クアウテモックのもとでアステカは抵抗を続けたが、翌1521年8月、テノチティトランは陥落した(テノチティトランの陥落)。

テノチティトランの陥落に関わる図版:Conquista-de-México-por-Cortés-Tenochtitlan-Painting
テノチティトランの陥落Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

征服の後、アステカの人々の間では、モクテスマは迷い、恐れ、外敵を都に招き入れた王として語られることが多くなった。スペイン人の側は、彼を、帝国を戦わずに差し出した王として描いた。どちらの像も、征服の後の事情によって作られた面がある。モクテスマ本人が何を考えていたのかは、彼の言葉が征服者と被征服者の両方の記憶を通してしか残っていないため、分からないままである。

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