できごと

インカ帝国の滅亡

Spanish conquest of the Inca Empire
AD1533年
重要度 4
ポルトガル帝国スペイン帝国サバンナの狩猟採集民アマゾンの狩猟採集民パンパの諸文化ヌエバ・エスパーニャ副王領アンデスの狩猟採集民カリブの狩猟採集民AD1533年クスコ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1533年の版図を描いています(8勢力)。

概要

内戦で弱っていたところを、200人足らずのスペイン人に崩された。

場所

クスコ
-13.53°N -71.97°E · ペルー

関わった人(2)

フランシスコ・ピサロAD1478年頃–AD1541年6月26日 · スペイン側 · 総指揮アタワルパAD1502年頃–AD1533年7月26日 · インカ側

本文

16世紀の初め、南米のアンデス山脈には、北はいまのエクアドルから南はチリの中部まで、4000キロにわたる大きな国があった。インカ帝国である(インカ帝国の拡大)。人口は1000万前後と見積もられることが多い。それが、200人足らずのスペイン人の到来から数年で崩れた。

帝国の都はクスコにあった。各地を結ぶ道(インカ道)が山を越えて延び、飛脚が知らせを運んだ。文字は持たなかったが、紐の結び目で数を記すキープで、人と物を細かく管理していた。皇帝は太陽の子とされ、国のすべてが皇帝のもとに集まる仕組みだった。

ガロ島の13人。ピサロに従った者たち
ガロ島の13人。ピサロに従った者たちWikimedia Commons Juan Lepiani · Public domain

その皇帝ワイナ・カパックが、1520年代の後半、北の地で急に死んだ。跡継ぎに定められていた息子も相次いで死んだ。原因は、天然痘とみられる疫病だった。1520年にメキシコに入った天然痘(天然痘のアメリカ大陸上陸)が、スペイン人より先に、人から人へと南へ伝わっていた。免疫の無い人々の間で病は広がり、多くの死者を出していた。

皇帝の死で、二人の息子が争った。クスコの都をおさえたワスカルと、北の軍を率いたアタワルパである。内戦は数年続き、1532年、アタワルパの将軍たちがワスカルを捕らえて決着がついた。アタワルパは都へ向かう途中、北部のカハマルカにいた。

『ペルー征服史』挿絵(1851年刊)
『ペルー征服史』挿絵(1851年刊)Wikimedia Commons Fondo Antiguo de la Biblioteca de la Universidad de Sevilla from Sevilla, España · CC BY 2.0

まさにそのとき、フランシスコ・ピサロが率いるスペイン人の一行が海岸に上陸していた。ピサロは、すでに二度、南米の太平洋岸を探っており、豊かな国があることを知っていた。メキシコでエルナン・コルテスがアステカを倒したことも知っていた。率いていたのは、歩兵と騎兵を合わせて160人あまりとされる。

1532年11月、ピサロはカハマルカでアタワルパに会見を申し込んだ。アタワルパは数千人の供を連れ、ほとんど武器を持たずに広場へ来た。スペイン人は広場の周りの建物に隠れて待ち伏せし、合図とともに大砲と銃を撃ち、馬で突っ込んだ。混乱のなかで多くのインカの人々が殺され、アタワルパは捕らえられた。その場面の詳しい経過は、カハマルカの戦いに書いた。

カハマルカの戦いに関わる図版:La Captura de Atahualpa - Juan Lepiani 1920s
カハマルカの戦いWikimedia Commons Juan Lepiani · Public domain

アタワルパは、自分を解放する代わりに、閉じ込められた部屋を手の届く高さまで金で満たし、その二倍の銀を集めると申し出た。帝国じゅうから、神殿の飾りや器が運ばれてきた。スペイン人はそれを溶かして延べ棒にし、分け合った。金だけで6トンほどになったとされる。捕らわれている間にも、アタワルパは命令を出し、ワスカルを殺させたとされる。

身代金が集まっても、アタワルパは放されなかった。1533年7月、スペイン人は、彼が反乱を企てているとして処刑した。キリスト教の洗礼を受けたため、火あぶりではなく、絞首にされたと伝えられる。この処刑は、スペインの中でも批判された。

『インカ皇帝アタワルパの葬儀』(ルイス・モンテーロ画)
『インカ皇帝アタワルパの葬儀』(ルイス・モンテーロ画)Wikimedia Commons Luis Montero (Piura, 1826 - Callao, 1869) – painter (Peruvian) Born in Piura. Died in Callao. Details on Google Art Proj · Public domain

インカの統治は、皇帝一人に権威が集まる仕組みだった。頭を押さえられると、国全体が動けなくなる。さらに、内戦で負けたワスカルの側の人々や、インカに征服されていた地方の人々の中には、スペイン人をインカの支配から自分たちを解放する者とみて、味方についた者が多かった。スペイン人は数百人でも、彼らを支えた現地の人々は数万人にのぼった。騎兵と鉄の剣と鎧は、平地の戦いで大きな力を発揮した。

1533年11月、ピサロはクスコに入り、ワスカルの弟マンコ・インカを名目の皇帝に立てた。だがスペイン人の横暴に耐えかねたマンコは、1536年に反乱を起こし、クスコを長く包囲した。都を取り返すことはできず、マンコはアンデスの奥のビルカバンバに退いて、小さなインカの国を保った。この国は1572年まで続き、最後の皇帝トゥパク・アマルがクスコの広場で処刑されて終わる。200年後、その名を名乗って反乱を起こしたのがトゥパク・アマル2世である。

CHAPITRE VII Perou (cropped)
Wikimedia Commons Alain Manesson Mallet · Public domain

征服者たちは、手に入れた富をめぐって仲間割れし、ピサロも1541年、敵対した一派に暗殺された。

アンデスの人口は、16世紀を通じて激しく減った。疫病が繰り返し流行し、戦争と強制労働が重なった。その後、ポトシで銀山が見つかると(ポトシ銀山の開発)、先住民はその採掘に駆り出された。アンデスの銀は、太平洋と大西洋を越えて世界の経済を動かすことになる。

出典(4)

インカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベガ 『インカ皇統記』第1部
ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之 訳) 『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』第15章 科学と帝国の融合
ジャレド・ダイアモンド(倉骨彰 訳) 『銃・病原菌・鉄 一万三〇〇〇年にわたる人類史の謎』第18章 旧世界と新世界の遭遇
エドゥアルド・ガレアーノ(大久保光夫 訳) 『収奪された大地 ラテンアメリカ五百年』第1部

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