インカ帝国の滅亡
概要
内戦で弱っていたところを、200人足らずのスペイン人に崩された。
場所
-13.53°N -71.97°E · ペルー
関わった人(2)
フランシスコ・ピサロAD1478年頃–AD1541年6月26日 · スペイン側 · 総指揮アタワルパAD1502年頃–AD1533年7月26日 · インカ側本文
16世紀の初め、南米のアンデス山脈には、北はいまのエクアドルから南はチリの中部まで、4000キロにわたる大きな国があった。インカ帝国である(インカ帝国の拡大)。人口は1000万前後と見積もられることが多い。それが、200人足らずのスペイン人の到来から数年で崩れた。
帝国の都はクスコにあった。各地を結ぶ道(インカ道)が山を越えて延び、飛脚が知らせを運んだ。文字は持たなかったが、紐の結び目で数を記すキープで、人と物を細かく管理していた。皇帝は太陽の子とされ、国のすべてが皇帝のもとに集まる仕組みだった。

その皇帝ワイナ・カパックが、1520年代の後半、北の地で急に死んだ。跡継ぎに定められていた息子も相次いで死んだ。原因は、天然痘とみられる疫病だった。1520年にメキシコに入った天然痘(天然痘のアメリカ大陸上陸)が、スペイン人より先に、人から人へと南へ伝わっていた。免疫の無い人々の間で病は広がり、多くの死者を出していた。
皇帝の死で、二人の息子が争った。クスコの都をおさえたワスカルと、北の軍を率いたアタワルパである。内戦は数年続き、1532年、アタワルパの将軍たちがワスカルを捕らえて決着がついた。アタワルパは都へ向かう途中、北部のカハマルカにいた。

まさにそのとき、フランシスコ・ピサロが率いるスペイン人の一行が海岸に上陸していた。ピサロは、すでに二度、南米の太平洋岸を探っており、豊かな国があることを知っていた。メキシコでエルナン・コルテスがアステカを倒したことも知っていた。率いていたのは、歩兵と騎兵を合わせて160人あまりとされる。
1532年11月、ピサロはカハマルカでアタワルパに会見を申し込んだ。アタワルパは数千人の供を連れ、ほとんど武器を持たずに広場へ来た。スペイン人は広場の周りの建物に隠れて待ち伏せし、合図とともに大砲と銃を撃ち、馬で突っ込んだ。混乱のなかで多くのインカの人々が殺され、アタワルパは捕らえられた。その場面の詳しい経過は、カハマルカの戦いに書いた。

アタワルパは、自分を解放する代わりに、閉じ込められた部屋を手の届く高さまで金で満たし、その二倍の銀を集めると申し出た。帝国じゅうから、神殿の飾りや器が運ばれてきた。スペイン人はそれを溶かして延べ棒にし、分け合った。金だけで6トンほどになったとされる。捕らわれている間にも、アタワルパは命令を出し、ワスカルを殺させたとされる。
身代金が集まっても、アタワルパは放されなかった。1533年7月、スペイン人は、彼が反乱を企てているとして処刑した。キリスト教の洗礼を受けたため、火あぶりではなく、絞首にされたと伝えられる。この処刑は、スペインの中でも批判された。

インカの統治は、皇帝一人に権威が集まる仕組みだった。頭を押さえられると、国全体が動けなくなる。さらに、内戦で負けたワスカルの側の人々や、インカに征服されていた地方の人々の中には、スペイン人をインカの支配から自分たちを解放する者とみて、味方についた者が多かった。スペイン人は数百人でも、彼らを支えた現地の人々は数万人にのぼった。騎兵と鉄の剣と鎧は、平地の戦いで大きな力を発揮した。
1533年11月、ピサロはクスコに入り、ワスカルの弟マンコ・インカを名目の皇帝に立てた。だがスペイン人の横暴に耐えかねたマンコは、1536年に反乱を起こし、クスコを長く包囲した。都を取り返すことはできず、マンコはアンデスの奥のビルカバンバに退いて、小さなインカの国を保った。この国は1572年まで続き、最後の皇帝トゥパク・アマルがクスコの広場で処刑されて終わる。200年後、その名を名乗って反乱を起こしたのがトゥパク・アマル2世である。

征服者たちは、手に入れた富をめぐって仲間割れし、ピサロも1541年、敵対した一派に暗殺された。
アンデスの人口は、16世紀を通じて激しく減った。疫病が繰り返し流行し、戦争と強制労働が重なった。その後、ポトシで銀山が見つかると(ポトシ銀山の開発)、先住民はその採掘に駆り出された。アンデスの銀は、太平洋と大西洋を越えて世界の経済を動かすことになる。