カハマルカの戦い

概要
168人のスペイン人が、数万の軍の目の前で皇帝を捕らえた。スペイン側の死者はいない。ダイアモンドはこの日を本の問いの出発点にする。
場所
-7.16°N -78.50°E · ペルー・カハマルカ県
関わった人(2)
フランシスコ・ピサロAD1478年頃–AD1541年6月26日 · 指揮アタワルパAD1502年頃–AD1533年7月26日 · 捕らえられた本文
1532年11月16日の午後、アンデス北部の盆地の町カハマルカで、168人のスペイン人が広場を囲む建物の中に身を潜めていた。騎兵が62人、歩兵が106人。率いていたのはフランシスコ・ピサロで、待っていた相手は、数万の兵を町の外に置いたインカ帝国の皇帝アタワルパだった。
ピサロはスペインのエストレマドゥーラの出で、読み書きができなかったとされる。パナマを拠点に、南に黄金の豊かな国があるという噂を追って1520年代に二度の探検を行い、インカの町トゥンベスを見て戻った。1529年にスペイン王から征服の許可を得て、1531年の初めに180人ほどの兵と30頭あまりの馬でパナマを出た。数年前にエルナン・コルテスがわずかな兵でアステカを倒した話は、すでにスペイン人のあいだに広く知られていた。

迎えるインカは、インカ帝国の拡大を経て、いまのエクアドルからチリ中部まで南北4000キロを治める大帝国だった。だが1520年代の後半、皇帝ワイナ・カパックが疫病で急死し、後継者とされた息子も相次いで死んだ。この疫病は、スペイン人より先に南米へ入り込んだ天然痘だったとする見方が強い(天然痘のアメリカ大陸上陸)。王位はクスコにいたワスカルと、北のキトで父の軍を握っていたアタワルパのあいだで争われ、数年にわたる内戦になる。ピサロが上陸したころ、アタワルパの将軍たちはワスカルの軍を破り、本人を捕らえたばかりだった。アタワルパはクスコへ向かう途中、カハマルカ近くの温泉で兵を休めていた。
11月15日、スペイン人はカハマルカに入った。町はほとんど空だった。ピサロはエルナンド・デ・ソトと弟のエルナンド・ピサロを使者に送り、翌日、皇帝が町に来ることを約束させた。山の斜面を埋める野営の火を見て、多くの兵が恐怖で眠れなかったと、参加者の一人が書き残している。ピサロは広場を囲む長い建物に騎兵と歩兵を分けて隠し、わずかな砲を高い場所に据えた。

16日の夕方近く、アタワルパは輿に乗って広場に入ってきた。先に立つ従者たちが道を掃き清め、歌いながら進んだという。数千人の従者は、目に見える武器は持っていなかった(衣の下に投石器や棍棒を隠していたとする記録もある)。ドミニコ会の修道士バルベルデが通訳を連れて進み出て、キリスト教の教えとスペイン王への服従を説いた。差し出した書物(聖務日課書とも聖書ともいう)を皇帝が手に取り、地面に投げた、と伝わる。この場面は参加者ごとに記録が食い違い、どこまで正確かは分からない。
修道士が戻って叫ぶと、砲が撃たれ、ラッパが鳴り、騎兵が「サンティアゴ」と叫んで飛び出した。馬を見たことのない人びとは狭い広場で逃げ場を失い、押し寄せた群衆の重みで壁の一部が崩れたほどだった。輿の担ぎ手は殺されるたびに別の者が代わって輿を支え続けたという。ピサロ自身が輿に近づき、皇帝を引きずり下ろして捕らえた。夕方までに殺された人数は、記録によって2000から7000と幅がある。スペイン側に死者はなく、負傷したのは皇帝をかばったピサロの手ぐらいだったと伝えられる。

捕らわれた皇帝は、スペイン人が何よりも金を欲しがっていることを見て取った。そして、自分が閉じ込められている部屋を手の届く高さまで金で満たし、さらにその倍の銀を差し出すと申し出た。帝国中から神殿や宮殿の金細工が運ばれ、ほとんどが溶かされて延べ棒にされた。金は6トン前後、銀はその倍ほどになったとされる。その間にアタワルパは獄中から命じて、捕虜のワスカルを殺させた。身代金が集まっても皇帝は解放されなかった。反乱を企てたという名目で裁かれ、1533年7月に処刑される。最期にキリスト教の洗礼を受けたため、火刑ではなく絞首とされた。
スペイン人は傀儡の皇帝を立て、1533年11月にクスコへ入った(インカ帝国の滅亡)。その傀儡の一人マンコ・インカは1536年に大反乱を起こし、敗れたあとも山中のビルカバンバで、その子らが1572年まで抵抗を続けた。ピサロ自身は1541年、征服者どうしの争いの末にリマで暗殺されている。帝国の道(インカ道)と倉と役人の仕組みは、そのままスペインの支配に使われた。

戦いと呼べるものではなかった。それでもこの日を境に、インカは頭を失った。帝国の命令はすべて皇帝から出ており、その皇帝が人質に取られたことで、町の外の数万の兵は動けなくなった。内戦で敗れたワスカルの側の人びとや、インカに征服されて日の浅い地方の人びとの中には、スペイン人を味方と見て手を組む者も出た。
ジャレド・ダイアモンドは物語「『銃・病原菌・鉄』で読む歴史」の第3章をこの日に充てた。なぜピサロがアタワルパを捕らえ、その逆にならなかったのか。スペイン人は馬と鉄の剣と甲冑と銃を持ち、大洋を渡る船を持ち、メキシコでの征服の経験を文字を通して知っていた。アタワルパはスペイン人について、使者の不確かな報告しか持っていなかった。そして病が先に帝国を割っていた。ダイアモンドはその一つ一つを遡り、家畜にできる動物と栽培できる植物の分布、大陸が東西に長いか南北に長いかという違いにまで行き着く。それが本全体の筋になる。
この日の出来事は、ほとんどが勝った側の記録を通してしか見えない。ピサロの秘書や弟、従兄弟らの報告が主な史料で、インカの側の言い分は、後にスペイン語で書かれた混血の年代記作者や先住民の証言にわずかに残るだけになる。人数や会話の細部は、そのことを踏まえて読む必要がある。