ヴィンランド到達
概要
ヨーロッパ人が北アメリカに着いた。集落は数年で放棄され、この到達は大陸の歴史を動かさなかった。
場所
51.60°N -55.53°E · カナダ・ニューファンドランド島
関わった人(1)
レイフ・エリクソンAD970年頃–AD1020年頃 · 当人本文
ノルウェーから海を渡った人々は、9世紀にアイスランドへ住みつき、985年ごろには赤毛のエイリークに率いられてグリーンランドの南西岸に入植した(ノルウェー人のグリーンランド入植)。木の育たない島で、家を建てる材木にも事欠く暮らしだった。その西にさらに陸地があるという話は、入植のすぐ後からあった。
伝えるのは、13世紀にアイスランドで書きとめられた二つのサガ、『グリーンランド人のサガ』と『赤毛のエイリークのサガ』である。前者によれば、グリーンランドへ向かう途中に嵐で流されたビャルニという男が、見知らぬ森の陸地を沖から見たが、上陸せずに引き返した。エイリークの息子レイフ・エリクソンがその話を聞き、ビャルニの船を買って、35人ほどで西へ向かったという。

サガのレイフは、ノルウェーに渡って王オーラヴ・トリュッグヴァソンのもとでキリスト教の洗礼を受け、グリーンランドに信仰を広める役目を負って帰ったことになっている。帰りの航海で難破した船の人々を救い、「幸運なレイフ」と呼ばれたともいう。ただし、二つのサガは細部で食い違い、『赤毛のエイリークのサガ』では、レイフはノルウェーからの帰りに流されて偶然ヴィンランドを見つけたことになっている。どちらも出来事から200年以上たって書かれたもので、伝承としての脚色を含んでいる。
レイフたちは、まず平たい岩ばかりの土地に着き、ヘッルランド(平石の国)と名づけた。次に森の広がる低い土地に着き、マルクランド(森の国)と呼んだ。さらに南へ進んで着いた土地で家を建てて冬を越し、そこで葡萄を見つけたことから、ヴィンランド(葡萄の国)と名づけた。ヘッルランドはバフィン島、マルクランドはラブラドル半島にあたるとみる研究者が多い。ヴィンランドがどこかは、今も決まっていない。

野生の葡萄が育つのはニューファンドランドより南、セントローレンス湾の奥やニューイングランドのあたりである。そのためヴィンランドはもっと南の土地だったとする説がある一方、サガに語られた葡萄は別の木の実だった、名前は入植者を誘うための宣伝だった、とする見方もある。赤毛のエイリークが、氷の島に「緑の土地」という名をつけたのも人を呼ぶためだったと、サガ自身が書いている。
レイフはグリーンランドへ材木と葡萄を積んで戻り、二度とヴィンランドへは行かなかった。サガでは、その後に弟たちや、ソルフィン・カルルセフニと妻グズリーズ・ソルビャルナルドッティルらが渡り、住みつこうとしたことになっている(ヴィンランドへの入植)。先住民との交易と戦いの末に、彼らも引き上げた。サガは、先住民を「スクレーリング」と呼んでいる。

長いあいだ、この話はどこまで本当か分からなかった。1960年、ノルウェーのイングスタ夫妻が、ニューファンドランド島の北端ランス・オ・メドーで北欧式の建物の跡を見つけ、ノルド人が北アメリカに来ていたことが初めて確かめられた。ただし、この場所に葡萄は育たない。遺跡からは、もっと南でしか採れないバターナッツ(クルミの一種)の殻が出ており、ここを拠点に南へも出かけていたと考えられている。2021年には、金属の刃で切られた木材の年輪から、1021年に人がいたことが年単位で確かめられた。
大陸に着いたのに、なぜ根づかなかったのか。グリーンランドの入植地は全体でも数千人ほどの小さな社会で、その外にもう一つの植民地を支える余力は無かった。航海は片道でも千数百キロにのぼる。先住民は数が多く、鉄の武器を持っていても、少人数で押しとどめられる相手ではなかった。木材を取りにマルクランドへ行く船は、その後も時々出ていたらしい。1347年には、マルクランドへ渡ったグリーンランドの船が嵐に流されてアイスランドに着いた、というアイスランドの年代記の記事がある。

ヴィンランドの名は、ヨーロッパに全く知られなかったわけではない。1075年ごろ、北ドイツの年代記作者ブレーメンのアダムが、デンマーク王から聞いた話として、葡萄の自生する島ヴィンランドのことを書いている。しかし、それを海の向こうの新しい大陸と結びつける者はいなかった。グリーンランドの入植地もやがて絶え(ノルウェー領グリーンランドの終焉)、ヨーロッパがアメリカ大陸と出会い直すのは、1492年のコロンブスの到達によってである。