カンディアロンク
概要
五大湖のウェンダットの指導者で、外交と弁論で知られた。フランス人との対話の記録が本国で読まれ、ヨーロッパ人が自分たちの社会を疑う材料になった。
関わったできごと(1)
先住民による西洋批評AD17世紀末〜18世紀初め · 論じた本文
カンディアロンクは、五大湖の北西、ミシリマキナック(いまのミシガン州の北端)に住むウェンダット(ヒューロン)の一派の指導者だった。生年は分からない。フランス人は彼を「ル・ラ(ネズミ)」と呼んだ。名の意味を訳したものとも、抜け目のなさを指した渾名とも言われる。
彼の民は苦い過去を背負っていた。17世紀半ば、ヒューロン湖の南東にあったウェンダットの本拠地は、天然痘などの疫病で人口を大きく減らしたうえ、毛皮交易の主導権を争うイロコイ連邦の攻撃を受けて壊滅した。イロコイはイロコイ連邦の成立(大平和の法)で結ばれた五つの部族の連合で、オランダやイギリスと結んで銃を手に入れていた。生き残った人びとは西へ北へと散り、フランスの交易拠点の近くに身を寄せた。カンディアロンクが率いたのはその末裔で、イロコイを宿敵とし、フランスと同盟を結びながら、フランスに見捨てられることを常に警戒していた。

1680年代、フランスとイロコイ連邦は戦いと和睦を繰り返していた。1688年、両者が単独講和に近づくと、ウェンダットは取り残される恐れがあった。カンディアロンクは講和に向かうイロコイの使節団を待ち伏せして襲い、捕らえた者に「フランス総督の命令でやった」と告げて解き放った、と伝えられる。イロコイは裏切られたと怒り、講和は壊れた。宣教師シャルルヴォワは、彼がこれを「平和を殺した」と言ったと書いている。翌1689年、イロコイはモントリオール近郊のラシーヌを襲い、多くの入植者が殺された。
この人物が記録に残ったのは、何よりも弁論のためである。総督フロントナックの会議で、彼は通訳を通して長く論じ、その機知と論理はフランス人の記録者を感嘆させた。イエズス会士のシャルルヴォワは、彼ほど才知のある者はいなかった、議論で彼に勝てた者はいない、という趣旨の評を残している。総督の食卓に招かれ、宗教や政治について宣教師と論じ合うこともあったという。
フランスの軍人で旅行家のラオンタン男爵は、ヌーヴェル・フランスでの経験をもとに、1703年に『未開人との対話』を出した。そこでは「アダリオ」という名のウェンダットの賢者が、フランス人と論じ合う。アダリオは、金がなぜ人を奴隷にするのか、私有財産がなぜ争いを生むのか、なぜ法と牢獄が要るのか、なぜ身分の高い者に頭を下げるのか、と問い、ウェンダットの社会では誰も他人に命令されない、と語る。アダリオのモデルがカンディアロンクだとされる。
どこまでが実際の言葉かは分からない。ラオンタン自身が教会や絶対王政に批判的な人物で、自分の主張を「未開人」の口に託した部分は大きいと考えられている。それでもこの本は版を重ね、各国語に訳されて広く読まれた。ヨーロッパの制度は自然なものではなく、外から見れば奇妙に映る、という視点は、18世紀の思想家たちに受け継がれていく。ジャン=ジャック・ルソーが不平等の起源を論じたとき、その背景にはこうした「未開人の目」の文学の流れがあった。2021年には人類学者デヴィッド・グレーバーと考古学者デヴィッド・ウェングロウが、啓蒙思想が先住民の批判から刺激を受けた例として、カンディアロンクを大きく取り上げている。
晩年の彼は、戦いを終わらせる側に回った。フランス総督カリエールは、五大湖と北米東部の先住民の諸部族、イロコイ、フランスの全体を和解させる大講和を企て、1701年夏、約40の部族から1000人を超える代表がモントリオールに集まった。カンディアロンクはウェンダットの代表として交渉を支えたが、会期中に高熱に倒れた。8月1日、椅子に座ったまま総督の前で長く演説し、和平を説いたと伝えられる。翌8月2日に死んだ。
フランス側は彼をモントリオールの教会で、軍の儀礼をもって葬った。諸部族の代表が葬列に加わった。和平条約が調印されたのは、その2日後の8月4日だった。この大講和で、フランスとイロコイの長い戦争はひとまず終わった。
一人の先住民の指導者が、自分の民を生き残らせるために策略をめぐらし、同時にヨーロッパ人の社会そのものを問い直す言葉を残した。後者は他人の筆を通してしか伝わっていない。カンディアロンクの名が今日あらためて読まれているのは、その言葉の持ち主が誰だったのかという問いも含めてのことである。