インカ帝国の拡大
概要
文字を持たないまま、4万kmの道路網と結縄で南米西岸を統治した。
場所
-13.53°N -71.97°E · ペルー
関わった人(2)
パチャクテクAD1418年頃–AD1471年頃 · 拡大を主導アタワルパAD1502年頃–AD1533年7月26日 · 最後の皇帝本文
インカは、ペルーのアンデス山中、標高3400メートルのクスコ盆地にいた小さな勢力にすぎなかった。それが100年足らずで、北は現在のエクアドルとコロンビア南部、南はチリ中部とアルゼンチン北西部まで、南北4000キロに及ぶ国になった。自分たちはこの国を「四つの地方」を意味するタワンティンスーユと呼んだ。インカという言葉も、もとは王やその一族を指す呼び名だった。国の共通語として広められたケチュア語は、いまもペルーやボリビアなどで数百万人に話されている。
始まりは、伝承では1438年ごろとされる。北西から攻めてきたチャンカ族にクスコが包囲されたとき、王子の一人が町を守り抜き、父に代わって王位についた。これがパチャクテクで、名前は「世界を変える者」を意味する。インカの初期の年代は、スペイン人が後に聞き取った記録に頼っていて、正確な年は分かっていない。

パチャクテクは周りの民族を次々に従え、クスコを石造りの都に建て直した。パチャクティの拡大を引き継いだ息子のトゥパック・インカ・ユパンキは、北のエクアドルへ進み、海岸のチムー王国を併合した。インカによるチムー併合によって、インカは海岸の灌漑農業と金属細工の技術を手に入れる。その子ワイナ・カパックの時代に、領土は最大になった。人口は1000万前後と推計されるが、推計には大きな幅がある。
征服は戦いだけで進めたのではない。インカはまず使者を送り、従えば首長の地位をそのまま認め、贈り物を与えた。抵抗すれば攻めた。従った民族の神像をクスコに預からせ、首長の子をクスコで育てた。反抗しそうな集団は、ミトマと呼ばれる制度で遠くの土地へまとめて移住させた。

この広い国を、インカは文字を持たずに治めた。道の網はカパック・ニャンと呼ばれ、総延長は4万キロに及んだとされる。山の斜面に石段を刻み、深い谷には植物の繊維を編んだ吊り橋を架けた。その橋は、地元の共同体が毎年架け替える決まりだった。ペルーのケスワチャカ橋では、いまも村人がこの架け替えを続けている。
道にはおよそ一定の間隔で宿駅が置かれ、チャスキと呼ばれる走者が交代しながら知らせを運んだ。一日で240キロ進んだともいわれる。記録にはキープ(結縄)を使った。一本の主になる紐に何本もの紐を垂らし、結び目の位置と種類で十進法の数を表す。人口、収穫、倉庫の中身、労働の割り当てが、紐で管理された。数のほかに物語や名前も記録していたのではないかという説があるが、解読されていない。

税は物ではなく労働で納めた。ミタと呼ばれる義務で、人々は交代で道や橋、段々畑、神殿を作り、軍に加わった。国は各地に倉庫を建てて食糧や布を蓄え、労働に出た人々を養い、凶作の年に配った。王の離宮とされるマチュピチュも、この仕組みの上に築かれた。マチュピチュの建設はその代表的な例である。ジャガイモを凍らせて乾かすチューニョのような保存食が、この仕組みを支えた。
国の中心はクスコだった。都の中心には太陽神インティを祀るコリカンチャ神殿があり、壁は金の板で覆われていたと伝えられる。皇帝は太陽の子とされた。死んだ皇帝はミイラにされ、生前の宮殿と土地と従者を持ち続けて、祭りのたびに広場へ運び出された。新しい皇帝は自分の財産を一から築かなければならず、それが次々に新しい土地を征服する動機になったという説もある。

巨大な石を、継ぎ目に刃物も入らないほどぴたりと組み合わせる石積みも、インカを代表する技術だ。クスコの北にあるサクサイワマンの城壁には、重さ100トンを超えるとされる石もある。鉄の道具も車輪も使わず、運搬には人と、荷を背負うリャマを使った。
ワイナ・カパックは1527年ごろ、エクアドルで病死した。スペイン人より先に南米へ入っていた天然痘だったとする見方が強い。後継ぎと目された息子も同じころに死に、残った二人の息子、クスコのワスカルと北のアタワルパが王位を争って内戦になった。
内戦にアタワルパが勝った直後の1532年、フランシスコ・ピサロが率いる168人のスペイン人がペルー北部のカハマルカに現れた。アタワルパは数千の供を連れて会見に臨み、カハマルカの戦いで捕らえられた。アタワルパは部屋を金で満たすことを身代金として約束し、各地から金銀が集められたが、1533年に処刑された。同じ年、スペイン人はクスコに入る。

インカの抵抗はその後も山中のビルカバンバで続き、1572年に最後の王トゥパク・アマルが処刑されるまで終わらなかった。数百人の兵で帝国が倒れたように語られるが、実際には内戦の傷、疫病による人口の激減、そしてインカに支配されていた諸民族がスペイン側についたことが大きかったとされる。
インカの歴史を知るおもな手がかりは、征服の後にスペイン人が書き残した記録である。インカの王族の母とスペイン人の父を持つインカ・ガルシラーソ・デ・ラ・ベガは、17世紀の初めに『インカ皇統記』を著し、母方の人々から聞いた話をもとに帝国の姿を描いた。どの記録も書き手の立場を背負っており、インカを理想の国として描くものも、野蛮な国として描くものもある。