人物

パカル王

K'inich Janaab' Pakal
AD603年3月23日 – AD683年8月28日(享年80)
マヤ(パレンケ)重要度 4

概要

68年在位し、パレンケを最盛期に導いた。生没年が日まで分かるのは、マヤが精密な暦と文字を持っていたため。

関わったできごと(1)

マヤ古典期AD250年 · パレンケの王

本文

603年3月23日、いまのメキシコ南部、チアパス州の密林の丘にあるマヤの都市パレンケの王家に生まれた。名はキニチ・ハナーブ・パカル。パカルは「盾」を意味する。生まれた日まで分かるのは、マヤの人々が、日々を数える精密な暦(マヤの長期暦)と、言葉をそのまま書き表せる文字を持ち、王の誕生、即位、戦い、死を石に刻んで残したからである。その碑文が読めるようになったのは、20世紀の後半、文字の解読が大きく進んでからのことだった(マヤ文字の解読)。

マヤの長期暦に関わる図版:East side of stela C, Quirigua
マヤの長期暦Wikimedia Commons Maudslay · Public domain

パカルが生まれた頃、マヤ古典期の低地には大小の都市国家が並び、二つの大国、北のカラクムルと南のティカルが、それぞれの同盟国を従えて争っていた(カラクムルとティカルの戦争)。パレンケはカラクムルと敵対する側にいた。599年と611年、パレンケはカラクムルの軍に攻め込まれ、大きな打撃を受けた。碑文は、神々の像が倒され、祭りが行えなくなったことを嘆くような言葉で、この時期を記している。王家は揺らいでいた。

パカルの母サク・クックは、612年から3年ほど、パレンケを治めた。正式な女王だったのか、幼い息子のための摂政だったのかは、研究者の間で意見が分かれる。615年7月、12歳のパカルは母から王位を受け継いだ。王位が母を通じて受け継がれたことは、王の正統性を揺るがしかねなかった。のちにパカルは碑文の中で、母をパレンケの神々の祖である「最初の母」と重ね合わせ、自分の王位が神話の時代から続くものであることを示そうとした。

パカル王の翡翠の仮面と副葬品
パカル王の翡翠の仮面と副葬品Wikimedia Commons Gary Todd · CC0

在位は68年に及んだ。前半の数十年については、記録が多くない。626年に他の都市から妃を迎えている。やがてパカルは王国を立て直し、周りの小さな都市を従えていった。659年には、近隣の都市の領主たちを捕らえたことが記録され、宮殿の中庭には、ひざまずく捕虜たちの大きな浮き彫りが並べられた。

パカルの時代、パレンケは建築と美術で輝いた。王宮は増築を重ねて、中庭と回廊の入り組んだ大きな建物群になった。マヤの建築家たちは、石を少しずつせり出させて屋根を支える工夫を進め、パレンケの建物は、ほかの都市より広く明るい室内と、薄く軽やかな壁を持つようになった。漆喰の浮き彫りには、王と神々の姿が、柔らかな線で写実的に描かれた。

晩年、パカルは自分の墓となる神殿の建設に取りかかった。階段状のピラミッドの上に建つその神殿の壁には、パレンケの王たちの歴史と、神話の時代からの暦の計算を記した長い碑文が刻まれた。マヤの碑文の中でも指折りの長さで、のちに「碑銘の神殿」と呼ばれる。神殿を完成させたのは、跡を継いだ息子のキニチ・カン・バフラムだった。

683年8月28日、パカルは亡くなった。80歳だった。

それから1200年あまりが過ぎた1948年、メキシコの考古学者アルベルト・ルスが、碑銘の神殿の床の石板に穴が開いていることに気づいた。石板を持ち上げると、その下に、瓦礫で埋め尽くされた階段がピラミッドの内部へ下っていた。瓦礫を運び出すのに4年かかった。1952年、階段の底で、ルスは石の扉の向こうに広い部屋を見つけた。部屋の中央には、重さ数トンの巨大な石棺が据えられていた。

棺の中には、翡翠の小片を貼り合わせた仮面をかぶり、翡翠の首飾りや耳飾りに包まれた王の遺骨が横たわっていた。遺骨は赤い辰砂の粉で彩られていた。部屋から上の神殿の床まで、石の細い管が通っていた。死んだ王の魂が、生きている者たちとつながるための道だったと考えられている。

石棺の蓋には、パカルの姿が彫られている。王は、口を開けた冥界の怪物の上で、仰向けに倒れかかるような姿勢をしている。その上には、天と地と冥界を貫く世界樹が十字の形に伸び、てっぺんに神の鳥がとまる。死んだ王が冥界へ落ちていき、やがて再び生まれる瞬間を描いたものと解釈されている。1960年代の末、この姿を、操縦席で機械を操る宇宙飛行士だとする本が書かれて広く読まれたが、マヤの図像の決まりを知れば、そこに描かれているのはマヤの宇宙観そのものである。

遺骨は、当時のマヤの人々の平均よりも背が高かった。一方で、最初の分析では、骨や歯の様子から、死んだときの年齢は40代から50代と見積もられた。碑文の言う80歳と食い違うため、碑文の年代を疑う声も上がったが、その後の分析では、高齢だったとする見方が強まっている。王族は柔らかい食べ物を食べていたため歯がすり減りにくかった、とも考えられている。

1994年には、碑銘の神殿の隣の神殿から、赤い辰砂に覆われた女性の遺骨が見つかった。「赤の女王」と呼ばれ、パカルの妃ではないかと考えられているが、確かめられてはいない。

パカルの死後もパレンケはしばらく栄えたが、9世紀に入ると記録は途絶え、町は密林に呑み込まれた。マヤ低地の多くの都市と同じ運命だった(マヤ低地の崩壊)。王の名と日付を石に刻んだ文字が読めるようになったことで、パカルはいま、アメリカ大陸の古代の王として、最もよく生涯の分かる一人になっている。

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