できごと

プエブロ・ボニート

Pueblo Bonito
AD1050年頃
重要度 4
北極圏の海獣狩猟民デンマーク=ノルウェードーセット文化北米東部の狩猟採集民亜寒帯林の狩猟採集民平原のバイソン狩猟民アサバスカ諸族神聖ローマ帝国チューレ文化高原の漁労・狩猟採集民ミシシッピ文化北米太平洋岸の採集・狩猟・漁労民砂漠の狩猟採集民メソアメリカの都市国家と首長制社会カリブの狩猟採集民祖先プエブロタイノマヤの諸都市国家トルテカCaloosahatchee cultureureAD1050年頃プエブロ・ボニート
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1050年頃の版図を描いています(20勢力)。

概要

チャコ・キャニオンの谷底に、石を積んだ4階建て、部屋650、大キヴァ(円形の儀礼の部屋)3つ。木材20万本を80キロ先の山から運んだ(馬も車輪もなく、人が担いだ)。谷から放射状に、幅9メートルのまっすぐな「道」が何百キロも延びる。人はあまり住んでいなかった、と考えられる。巡礼と再分配の中心。1130年からの50年の旱魃で、放棄された。

場所

プエブロ・ボニート
36.06°N -107.96°E · アメリカ・ニューメキシコ州

本文

ニューメキシコ州北西部、標高1900メートルほどの乾いた谷を、チャコ・キャニオンと呼ぶ。雨は少なく、冬は厳しく冷え、谷にはほとんど木が生えていない。それでも9世紀から12世紀にかけて、先祖プエブロ人(かつてアナサジと呼ばれた人々)は、この谷とその周りに石造りの巨大な建物をいくつも建てた(チャコ・キャニオンの大集落)。その中で最も大きく、最も長く使われたのがプエブロ・ボニートである。名は「美しい村」を意味するスペイン語で、19世紀にこの地を通ったメキシコ人の案内人が付けたものとされる。

建物は850年ごろに建て始められ、それから300年近く、増築が重ねられた。北側の崖を背にして、平面はアルファベットのDの字のような半円形になる。弧の部分は4階から5階建てに積み上がり、直線の部分が南の広場を閉じている。部屋の数は600から800と見積もられ、そのほかに円形の半地下の儀礼の部屋、キヴァが30以上ある。壁は、芯になる粗い石積みの両面に、砂岩の薄い板を隙間なく積んで仕上げた。板の積み方は時期ごとに違い、それが建てられた年代を知る手がかりになっている。

プエブロ・ボニートの航空写真
プエブロ・ボニートの航空写真Wikimedia Commons National Park Service · Public domain

屋根と床を支える梁には、松やモミ、トウヒの太い材が使われた。年輪の分析と木材の化学分析から、その多くが谷から70キロ以上離れたチュスカ山地などの山から運ばれたことが分かっている。チャコの大きな建物全体で使われた木は、20万本を超えると推定される。この人々は馬も牛も車輪も持っていなかった。何百キロもある梁を、人が担いで山から運んだことになる。

不思議なことに、これほど大きな建物なのに、人はあまり住んでいなかったと考えられている。煮炊きの跡や生活ごみの量、見つかった埋葬の数が、部屋の数に比べてずっと少ないからである。常に暮らしていたのは数十人から数百人ほどで、多くの部屋は物資をしまう倉だったらしい。そのため、プエブロ・ボニートは人の住む村というより、祭りや儀礼のときに遠くから人が集まり、食料や品物が集められ、配り直される場所だったと考える研究者が多い。チャコの谷からは、幅9メートルほどのまっすぐな道が何本も外へ延びており、それを巡礼の道とみる説もある。

2006年、東側から見たプエブロ・ボニート
2006年、東側から見たプエブロ・ボニートWikimedia Commons Joekoz451 ( talk ) · Public domain

出土品も、この場所が広い世界とつながっていたことを示す。トルコ石の玉や象嵌は大量に見つかり、その原石は遠くの鉱山から運ばれていた。カリフォルニア湾の貝、メキシコから来た銅の鈴、そして色鮮やかなコンゴウインコの骨。インコはメキシコの暑い土地にしか住まない鳥で、羽を儀礼に使うために、生きたまま1000キロ以上も運ばれたとみられる。2009年には、円筒形の土器の内側から、カカオに含まれる成分が検出された。メソアメリカのカカオ飲料が、ここで飲まれていたことになる。

建物の奥には、特別な部屋があった。19世紀末に発掘された第33号室である。ここには14人が葬られ、その一部はトルコ石の玉や貝の装身具など、膨大な副葬品とともに埋められていた。2017年に発表されたDNAの分析では、このうち9人が母方の血筋で結ばれた一つの家系に属し、およそ300年にわたって同じ部屋に葬られ続けたことが分かった。代々続く有力な家系、言い換えれば一種の王家がいた可能性を示す発見である。ただし、その家系がどのような権力を持っていたのかについては、研究者の間でも見方が分かれている。

プエブロ・ボニート南東部のキヴァと方形の部屋(1929年撮影、ジョージ・A・グラント)
プエブロ・ボニート南東部のキヴァと方形の部屋(1929年撮影、ジョージ・A・グラント)Wikimedia Commons George A. Grant · Public domain

建物の向きにも意味が込められていたとみられる。広場を二分する壁はほぼ正確に南北を向き、南の外壁はほぼ東西に延びている。太陽の動きを意識して設計されたと考えられており、谷の近くのファハダ・ビュートでは、夏至の日に岩の隙間から差す光が渦巻きの刻みを射抜く仕掛けも知られている。

1130年ごろから、この地域は50年ほど続く深刻な旱魃に見舞われた。年輪がそれを記録している。大きな建築は止まり、人々は谷を離れて北のメサ・ヴェルデや、南のリオ・グランデ川流域、ホピの台地などへ移っていった。いまのプエブロの諸部族やホピは、チャコを祖先の地として語り継いでいる。同じ時代、ミシシッピ川流域ではカホキアの繁栄が栄えていた。北アメリカの南西部と東部で、それぞれ大きな中心が築かれ、やがて放棄されていった(カホキアの放棄)。

プエブロ・ボニートは1907年に国の保護下に置かれ、1987年にはチャコ文化の遺跡群として世界遺産に登録された。1941年には、建物の背後にそびえていた巨岩が崩れ落ち、北側の壁の一部が押しつぶされている。1000年近く前の人々が、なぜこれほどの労力をこの乾いた谷に注いだのか。その問いには、いまもはっきりした答えが出ていない。

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