ラ・ベンタの放棄
概要
メソアメリカで最初に大きな都市を作った文化が、その中心を捨てた。巨石人頭像が意図的に壊された跡がある。暦と球技と神々は、後の文化に受け継がれた。
場所
18.10°N -94.04°E · メキシコ・タバスコ州(オルメカ)
本文
メキシコ湾の南岸、いまのベラクルス州とタバスコ州にまたがる低地は、川が網の目のように流れ、湿地と熱帯の森が広がる土地になる。紀元前1200年ごろから、ここでメソアメリカで最初の大きな儀礼の中心が作られた。それを築いた人々の文化を、オルメカ文明と呼ぶ。オルメカは後のアステカの言葉で「ゴムの国の人」を意味し、彼ら自身が何と名乗っていたかは分かっていない。
最初の中心はサン・ロレンソだった。川を見下ろす台地を盛り土で整え、その上に建物を並べた。紀元前900年ごろ、サン・ロレンソは衰え、代わって栄えたのが、東のトナラ川の湿地に浮かぶ島に築かれたラ・ベンタになる。

ラ・ベンタの中心には、粘土を積み上げた高さ30メートルあまりの大ピラミッドがそびえる。その北に、南北の軸に沿って広場と土の基壇が並ぶ。地中からは、驚くほど大きな埋納物が見つかった。何層にも重ねた蛇紋石の切石を穴に埋め、その上に、蛇紋石のブロックでジャガーの顔のような図柄を組んだ床を作り、それをまた土で埋めている。数百トンから千トンを超える石が、人の目に触れない地下に納められていた。見せるためではなく、神に捧げるための作業だったと考えられている。
巨石人頭像も、ラ・ベンタの名を知らしめた。重さ数トンから20トンを超える玄武岩の塊に、厚い唇と平たい鼻を持つ、兜のようなものをかぶった顔を刻んでいる。一つ一つ顔立ちが違い、支配者の肖像と見られている。オルメカの中心地全体で17体が知られ、ラ・ベンタからは4体が出ている。

石は、北西に100キロ近く離れたトゥストラ山地から運ばれた。車輪も荷役の動物も無い。川を筏で下ったと考えられているが、どうやって運んだのかはっきりしたことは分かっていない。翡翠や蛇紋石はさらに遠く、いまのグアテマラのあたりから届いていた。
紀元前400年ごろ、ラ・ベンタは捨てられた。

理由は分かっていない。川の流れが変わって、交通や畑の条件が悪くなった、という説がある。トゥストラ山地の火山の噴火が周辺に灰を降らせた、という説もある。支配者の権威が揺らいで内紛が起きたとも、外から勢力が来たとも言われる。どれか一つに決められるほどの証拠はない。オルメカの中心地の人口そのものが、この頃に大きく減ったと見られている。
オルメカの石の記念物には、意図的に壊された跡のあるものが多い。巨石人頭像や玉座のような石の台の一部が、顔を打ち欠かれ、穴を穿たれ、溝を刻まれ、ときには地中に埋められていた。新しい支配者が前の支配者の像を壊したのか、支配者が死んだときに像を儀礼として「殺した」のか。玉座を削り直して人頭像に作り替えたのではないか、という説もある。
オルメカが消えても、その要素は残った。ゴムの球を使った球技は、オルメカの地で紀元前1600年ごろのゴムの球が見つかっており、のちのメソアメリカ全体に広がった。翡翠を尊び、ジャガーを神聖な動物とし、エイのとげなどで自分の血を流して神に捧げる儀礼。暦と文字の始まりも、オルメカの後を継いだこの地域の人々と結びついている。紀元前1世紀の長い暦の日付は、オルメカの地とその近くの石碑から見つかっている(マヤの長期暦)。
オルメカを、のちの文明すべての母とする見方がある。一方で、同じ頃にモンテ・アルバンのサポテカのオアハカや、メキシコ高原など各地で並行して文化が育ち、互いに影響し合ったのだと見る研究者もいる。いずれにしても、マヤ古典期のマヤも、テオティワカンの隆盛のテオティワカンも、アステカも、オルメカの時代に生まれた考え方を受け継いでいる。
ラ・ベンタの遺跡は、20世紀の半ば、石油の開発で壊されかけた。地元の詩人カルロス・ペリセルの働きかけで、主な石の記念物は州都ビジャエルモサの公園に移され、いまも森の中に並べて展示されている。