テカムセ
概要
部族の枠を越えた連合で入植の波を止めようとした。土地は誰か一人のものではない、という主張を貫く。
関わったできごと(1)
テカムセの部族連合1808年 · 指導本文
1768年頃、いまのオハイオ州南部、サイオト川の流域にあったショーニー族の村で生まれた。ショーニーはもともと各地を移り住んできた民で、この頃にはオハイオの地に落ち着いていたが、アパラチア山脈を越えて西へ広がる白人の入植者と、絶えずぶつかっていた。1774年、テカムセが6歳ほどのとき、父はヴァージニアの民兵との戦い(ポイント・プレザントの戦い)で死んだ。兄も、のちに白人の入植地を襲う戦いのなかで死んでいる。

アメリカが独立したあと、オハイオ川の北の土地をめぐって、合衆国と先住民の諸部族は戦い続けた。1794年、フォールン・ティンバーズの戦いで部族の連合軍は敗れ、翌1795年のグリーンヴィル条約で、オハイオの大半を手放すことになる。若いテカムセはこの戦いに加わっていたが、条約の席には出ず、署名もしなかった。
彼の主張は一貫していた。土地は、そこに暮らすすべての部族の共有のものであり、一つの部族や一人の首長が売る権利は無い。それまで、土地を手放す条約は部族ごとに結ばれていた。合衆国の役人は、交渉に応じる首長を見つけて酒や贈り物を与え、一つの部族が署名すれば、そこに住むほかの部族ごと土地が移ったものとして扱った。テカムセは、その仕組みそのものを否定した。

1805年頃、弟のララウェシカが幻を見て、預言者テンスクワタワと名を変えた。白人のもたらした酒や品物、衣服を捨て、先住民の古い暮らしに戻れ、と説いた。この教えは部族を越えて広がり、1808年、兄弟はインディアナのティピカヌー川のほとりに、預言者の町(プロフェッツタウン)を作った。弟の信仰の運動と、兄の政治と軍事の連合が、そこで一つになった(テカムセの部族連合)。
1809年、インディアナ準州の知事ウィリアム・ヘンリー・ハリソンは、いくつかの部族の首長とフォートウェイン条約を結び、およそ300万エーカーの土地を手に入れた。テカムセは翌年、知事の館があるヴィンセンズへ乗り込み、ハリソンと向き合って、この条約は認められないと迫った。そのとき「土地を売るだと。ならば空気も、雲も、大きな海も売ればよい」と語ったと伝えられるが、残っている演説の多くは白人が後に書き起こしたもので、どこまで本人の言葉かははっきりしない。ただ、彼の雄弁が敵の側にも強い印象を残したことは、ハリソン自身の書いたものからも分かる。ハリソンは彼を、合衆国が隣にいなければ、メキシコやペルーに並ぶ帝国を築いたかもしれない人物だ、と書いている。

連合を広げるため、テカムセは各地を回った。北は五大湖のあたりから、南はクリーク族やチョクトー族、チカソー族の土地まで、何千キロもの旅をして、部族の違いを越えて手を組むよう説いた。南の部族の多くは応じなかったが、クリーク族の一部の若者たちは強く心を動かされた。
1811年11月、テカムセが南へ出ていた留守のあいだに、ハリソンは軍を率いてプロフェッツタウンに迫った。預言者の弟は、白人の弾は当たらないと信者たちに告げて攻撃を仕掛けたが、ティピカヌーの戦いで撃退され、町は焼かれた。預言者の権威は崩れ、連合の結束も揺らぎ始める。

翌1812年、アメリカとイギリスの戦争(米英戦争)が始まった。テカムセはイギリス側について戦った。イギリスが勝てば、先住民の土地が守られると考えたからだ。イギリスの将軍ブロックとともにデトロイトを攻め落とし、ブロックは彼を深く信頼した。だがブロックが戦死し、後任の将軍は消極的だった。1813年秋、エリー湖での海戦にイギリスが敗れると、イギリス軍はカナダへ退き始める。テカムセは強く反対したが、従うしかなかった。
1813年10月5日、テムズ川の戦いで、イギリス軍が崩れたあとも先住民の兵は踏みとどまり、テカムセはそこで戦死した。45歳前後。誰が彼を討ったのかは分からず、遺体も確かめられていない。仲間が運び去って隠したとも伝えられる。

彼の死とともに、部族を越えた連合の試みは終わった。彼と戦ったハリソンは、のちに「ティピカヌーの英雄」を看板に大統領になる。そして1830年代には、ミシシッピ川の東に住む先住民を西へ移す政策が進められ、南部の諸部族は故郷を追われていった(涙の道)。テカムセの名は、敵だったアメリカでもカナダでも、勇敢で誇り高い先住民の指導者として語り継がれている。彼の戦いは、ルイジアナ買収を経て西へ広がっていく合衆国の地図の、裏側にある歴史でもある。