ラス・カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』

概要
ドミニコ会の司教が、自分が見たスペイン人の殺戮を王子に報告する形で印刷した。「1200万人を超え、実は1500万人を超える」。数字は誇張とされるが、告発は本物で、敵国が訳して回覧し、「黒い伝説」の元になった。
場所
37.39°N -5.98°E · スペイン
関わった人(1)
バルトロメ・デ・ラス・カサスAD1484年–AD1566年7月18日 · 著者本文
バルトロメ・デ・ラス・カサスは、1484年ごろにセビリャで生まれた。父はコロンブスの2度目の航海に加わった人で、彼自身も1502年、18歳ほどでカリブ海のエスパニョーラ島に渡った。先住民の労働をスペイン人に割り当てるエンコミエンダの制度のもとで、彼もまた土地と先住民を与えられた植民者の一人だった。1513年にはキューバの征服に従軍司祭として加わり、カオナオの村でスペイン兵が先住民を理由もなく斬り殺す光景を目の当たりにしている。
1514年、30歳ほどのラス・カサスは、聖書の一節を読んで回心し、自分の先住民を手放した。それから半世紀、彼は先住民を守るために、大西洋を何度も往復して王や役人に訴え続けた。のちにドミニコ会の修道士となり、メキシコ南部のチアパスの司教にもなった。初めのころには、先住民の代わりにアフリカから黒人の奴隷を連れてくることを勧めたこともあり、晩年、それを深く悔いたことを自ら書いている。

1542年、ラス・カサスはスペインで、皇帝カール5世の前に、征服の地で起きた残虐を記した報告を差し出した。同じ年、皇帝は「インディアス新法」を出し、先住民を奴隷にすることを禁じ、エンコミエンダを代替わりとともに廃止していく方針を示した。だが植民者たちは激しく反発し、ペルーではフランシスコ・ピサロの弟ゴンサロが反乱を起こして、新法を伝えに来た副王を戦いで殺した。法の肝心な部分は数年で取り消された。
1552年、ラス・カサスはセビリャで、10年前の報告を『インディアスの破壊についての簡潔な報告』として印刷させた。皇太子フェリペ(のちのフェリペ2世)に宛てた形をとっている。エスパニョーラ、キューバ、メキシコ、グアテマラ、ペルーと、島ごと地方ごとに、スペイン人がそこで何をしたかが淡々と、しかし容赦なく並べられる。村人を家に閉じ込めて焼き、子どもを岩に叩きつけ、犬に追わせて食わせ、キリストと12人の使徒を讃えると言って13人ずつ吊るした、という話である。そして彼は、40年の間に、不当に殺された人は1200万人を超え、本当は1500万人を超えると思う、と書いた。

この数字は、のちの研究では誇張とされる。ラス・カサスはエスパニョーラ島に300万人がいたと書いたが、いまの推計は数十万から100万あまりまで大きな幅がある。しかもその多くの命を奪ったのは、剣よりも、ヨーロッパ人の持ち込んだ天然痘やはしかなどの病だった(天然痘のアメリカ大陸上陸)。ラス・カサスは病の役割をほとんど知らず、殺戮と、金鉱や畑での酷使と、飢えだけを見ていた。それでも、50年ほどでエスパニョーラ島の先住民がほとんど消えたこと、征服が数えきれない殺戮を伴ったことは、他の記録からも確かめられる。
本は、すぐにスペインの敵の手に渡った。1578年にオランダ語、翌年にフランス語、1583年に英語に訳された。スペインと戦っていたオランダとイングランドで、それはスペイン人の残虐の証拠として読まれた。1598年には、版画家テオドール・ド・ブリが、犬が子どもを食い、人々が火あぶりにされる場面を生々しく描いた版画をつけてラテン語版を出し、そのイメージがヨーロッパに広まった。スペインを残酷で狂信的な国として描くこうした見方は、20世紀の初め、スペインの歴史家フリアン・フデリアスによって「黒い伝説」と名づけられ、敵国の宣伝が作った偏見だと反論された。ラス・カサスの告発は真実を含んでいたが、他の国々も自分の植民地で同じようなことをしていた。どちらも本当である。

本が出る少し前の1550年から翌年にかけて、スペインのバリャドリードで、ラス・カサスは学者セプルベダと公開の論争をしている。アメリカの先住民は、アリストテレスの言う「生まれつきの奴隷」であり、武力で従わせてよいのか、という問いである。セプルベダはそうだと言い、ラス・カサスは、先住民も理性を持つ同じ人間だと反論した。審査した学者たちは結論を出さなかった。征服を進める帝国が、その正しさを自ら公の場で問うたことは、ほかの帝国にはあまり例が無い。ラス・カサスは1566年、マドリードで死んだ。80歳を超えていた。