シッティング・ブル
概要
リトルビッグホーンで合衆国軍を破ったラコタの指導者。のちに保留地で警察官に射殺される。
関わったできごと(1)
ウーンデッド・ニーの虐殺AD1890年12月29日 · その2週間前に殺された本文
シッティング・ブル(ラコタの言葉でタタンカ・イヨタケ)は、1831年ごろ、いまのサウスダコタ州のグランド川のほとりで生まれたとされる。生年には1837年ごろとする説もある。北アメリカの大平原に暮らすラコタ(スー)の人々のうち、フンクパパという集団の出だった。子どものころは、何ごとも慎重でゆっくりしていたため「スロー」と呼ばれた。14歳で敵対するクロウの人々との戦いに加わり、相手に手を触れる勇気の手柄を立て、父から自分の名を譲られた。

ラコタの暮らしはバイソンの狩りに支えられ、季節ごとに大平原を移動した。シッティング・ブルは戦士として名を上げただけでなく、祈りと幻視によって人々を導く聖なる人(ウィチャシャ・ワカン)としても敬われた。
19世紀の半ば、白人の入植者と金を求める人々が西へ押し寄せた。合衆国はラコタと条約を結び、1868年のララミー砦条約では、ブラックヒルズを含む広大な土地を「大スー保留地」としてラコタに永久に与えると約束した。シッティング・ブルはこの条約に署名せず、白人の施しに頼る暮らしを拒んで、狩りを続けた。1869年に大陸横断鉄道が開通し(大陸横断鉄道の開通)、鉄道とともに来たハンターたちが、バイソンを毛皮のために撃ち尽くしていった(アメリカバイソンの激減)。

1874年、カスター中佐の率いる陸軍の調査隊がブラックヒルズで金を見つけた。ラコタにとって聖なる山々に、たちまち鉱夫が殺到した。合衆国は土地を買い取ろうとして断られると、保留地の外にいるラコタに、期限までに保留地に入らなければ敵とみなすと通告した。真冬の通告で、従える者はほとんどいなかった。
1876年6月、シッティング・ブルのもとには、ラコタやシャイアンの人々が数千人集まっていた。その初めに開かれたサンダンスの儀式で、彼は両腕の皮膚を100か所ほど切って捧げ、踊り続けた末に幻視を見た。たくさんの兵士がバッタのように、逆さまになって野営地に落ちてくる。兵士たちが倒されるという啓示だった。

6月25日、リトルビッグホーン川のほとりの大野営地を、カスターの第7騎兵隊が襲った。迎え撃ったのは、クレイジー・ホースらの戦士たちだった。カスターとその直属の兵およそ210人は全員が戦死し、騎兵隊全体の死者は260人を超えた。40代半ばのシッティング・ブルは、戦闘の先頭には立たず、女性や子どもを守り、野営地の守りを指図していたとされる。だが合衆国の新聞は、彼をこの「虐殺」の首謀者として書き立てた。
勝利は長く続かなかった。大軍が送り込まれ、各地の集団は次々に降った。1877年、シッティング・ブルは数百人を連れて国境を越え、カナダへ逃れた。カナダは、受け入れはしても食糧は出さず、バイソンもいなくなっていた。4年後の1881年7月、飢えた一行を連れて、シッティング・ブルは合衆国の砦に投降した。銃を幼い息子に渡して差し出させ、私が部族で最後に銃を手放した男だったことを覚えておいてほしい、と言ったと伝えられる。2年近く捕虜として留め置かれ、その後、スタンディング・ロックの保留地に移された。

1885年、シッティング・ブルは4か月ほど、バッファロー・ビルの「ワイルド・ウェスト・ショー」に加わり、合衆国とカナダを巡業した。自分を倒した国の見世物で、自分を演じることになる。観客の野次を浴びることもあったが、サインや写真を売って稼いだ金の多くを、町で物乞いする子どもたちに与えたという記録がある。白人の社会がなぜ貧しい者を助けないのか、理解できなかったと伝えられる。一座の射撃の名手アニー・オークリーを気に入り、「小さな百発百中」と呼んで養女のように扱ったことも知られる。
保留地に戻ると、政府は土地の切り売りを迫り、シッティング・ブルはそれに抵抗し続けた。1890年、死者がよみがえり、バイソンが戻り、白人が去る日が来ると説く「ゴーストダンス」が、飢えと病に苦しむ保留地に広がった。当局はシッティング・ブルがその背後にいると疑い、逮捕を命じた。12月15日の夜明け、彼の小屋を囲んだのは、政府に雇われた同じラコタの警官たちだった。連れ出されるところで支持者たちが集まり、銃撃が始まった。シッティング・ブルは警官に撃たれて死んだ。59歳前後だった。

その2週間後、逃れようとした別のラコタの集団が、ウーンデッド・ニーで騎兵隊に包囲され、女性や子どもを含む多くの人が殺された(ウーンデッド・ニーの虐殺)。平原の先住民の武力による抵抗は、これで終わった。ブラックヒルズについては、1980年、合衆国の最高裁判所が条約に反する取り上げだったと認め、補償金の支払いを命じた。ラコタの人々は、土地の返還を求めて受け取りを拒み続けている。