ポバティ・ポイントの土塁
概要
農耕をしない狩猟採集の人びとが、100万立方メートルの土を運んで半円の土塁を築いた。農業が無ければ大工事もできない、という前提が崩れる。
場所
32.63°N -91.41°E · アメリカ合衆国・ルイジアナ州
本文
アメリカ南部、ルイジアナ州の北東の端に、ミシシッピ川の古い流路を見下ろす台地がある。19世紀にここにあった農園の名をとって、ポバティ・ポイント(貧しい岬)と呼ばれている。地上を歩いても低い高まりがいくつかあるだけでよく分からないが、1950年代に空からの写真を見た考古学者が、その形に気づいた。六重の土の畝が、川に向かって開いた半円を描いて並んでいたのである。いちばん外側の弧は、端から端までおよそ1.2キロある。
畝の西には、鳥の形をしているとも言われる大きな塚がある。高さは20メートルを超え、北アメリカの土の塚の中でも最大級である。ほかにもいくつかの塚と広場があり、全体で動かされた土は数十万立方メートルから100万立方メートルに達すると見積もられている。すべて、かごに入れた土を人が運んで積み上げたものだ。築かれたのは紀元前1700年ごろから紀元前1100年ごろとされる。

驚かされるのは、作った人びとが農民ではなかったことだ。遺跡からは、魚、カメ、シカ、木の実、野生の種の跡がたくさん見つかるが、栽培された作物はほとんど出てこない。トウモロコシの農耕がこの地域に広がるのは、それから2000年以上あとになる。彼らは川と湿地と森の恵みで暮らす狩猟採集の人びとだった。
ここには石がない。そのため住人たちは、粘土を手で丸めたり握ったりした焼き物の玉を大量に作り、火で熱して地面の穴に入れ、食べ物を蒸し焼きにした。何万個も見つかっているこの土の玉が、遺跡の代表的な遺物になっている。一方で、遠くから運ばれた石もたくさん出る。オザーク高原やウォシタ山地の石材、五大湖周辺の銅、ミズーリの方鉛鉱、アパラチア山地の滑石。中には1000キロ以上離れた産地のものもある。この場所が、広い範囲の人びとをつなぐ交易と集まりの中心だったことを示している。

近年の調査で分かったことの一つは、最大の塚が驚くほど短い期間に積まれたらしいことである。土の層の間に、雨で表面が流れた跡や草が生えた跡がほとんど見られない。そこから研究者たちは、この塚が数か月という単位で、休みなく一気に築かれた可能性があると考えている。そうだとすれば、数千人規模の人びとが一度に集まって働いたことになる、という試算もある。
狩猟採集の人びとが土の塚を築いた例は、ここが最初でもない。同じルイジアナ州のワトソン・ブレイクには、紀元前3500年ごろにさかのぼる11基の塚が輪の形に並んでいて、エジプトのピラミッドよりも古い。ポバティ・ポイントは、その長い伝統の上に、規模と計画性で群を抜く姿で現れたものと言える。
この遺跡に一年じゅう大勢が住んでいたのか、季節ごとに各地から人が集まる祭りや交易の場だったのかは、まだ結論が出ていない。誰が人を集め、どうやって指図したのかも分からない。王や首長の豪華な墓は見つかっていない。
人類の歴史は長いあいだ、決まった順序で語られてきた。農耕の始まりによって食べ物が余り、余りが身分の上下を生み、身分の高い者が人を動かして大きな建造物を作らせる、という筋書きである。ポバティ・ポイントは、その順序が必ずしも成り立たないことを示す。デヴィッド・グレーバーとデヴィッド・ウェングロウの『万物の黎明』は、トルコのギョベクリ・テペと並べてこの遺跡を取り上げ、農耕の前にも人びとが季節ごとに集まって大きなものを作る社会があったことの例とした(物語「『万物の黎明』で読む歴史」)。
ポバティ・ポイントの社会は、紀元前1100年ごろから衰え、やがて人が去った。この地域で土の塚を築く伝統はその後も形を変えて続き、2000年あまりのちには、トウモロコシの農耕を土台にしたカホキアの繁栄が現れる。2014年、ポバティ・ポイントの土塁はユネスコの世界遺産に登録された。