できごと

ロイターの伝書鳩

Reuter's pigeons
AD1850年
重要度 4
ロシア帝国大英帝国デンマークオスマン帝国ペルシアポルトガル帝国スウェーデン=ノルウェースペイン帝国オーストリア帝国エジプトスペインフランスNejdモロッコAlgiersグレートブリテン及びアイルランド連合王国プロイセン両シチリア王国バイエルンTunisサルデーニャ王国TripolitaniaハノーファーCyrenaicaAD1850年アーヘン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1850年の版図を描いています(24勢力)。

概要

ベルリンとパリの間に電信線が引かれたが、アーヘンとブリュッセルの約120キロが繋がっていなかった。この空白を、ポール・ロイターが鳩で埋めた。ブリュッセルの株価を薄い紙に書いて鳩に付け、二時間でアーヘンへ運び、そこから電信でベルリンへ送る。郵便列車より数時間速い。翌年、線が繋がって鳩は不要になったが、彼はロンドンへ移り、通信社を作った。情報が速く着くことに、それ自体の値段が付くと分かった時期である。

場所

アーヘン
50.78°N 6.08°E · ドイツ

本文

1840年代、ヨーロッパに電信の線が引かれ始めた。モールスの電信がアメリカで実用になったのと同じころである。1850年ごろ、ドイツ側ではベルリンからプロイセン西端の町アーヘンまで、フランス・ベルギー側ではパリからブリュッセルまで、線が通じていた。ところが、そのあいだ、アーヘンとブリュッセルの間の100キロあまりがつながっていなかった。国境をまたぐ区間で、技術よりも国どうしの交渉や資金の問題が線を阻んでいた。パリやブリュッセルの相場をベルリンへ伝えるには、この区間を郵便列車で運ぶしかなく、それに何時間もかかった。その何時間かが、金になった。

この空白に目をつけたのが、パウル・ユリウス・ロイターである。彼は1816年、ドイツのカッセルで、ユダヤ教のラビの家に生まれた。もとの名をイスラエル・ベーア・ヨザファトという。若いころはゲッティンゲンの銀行で働き、そこで数学者ガウスと出会って電信に関心を持った、という話が伝わっている。ガウスは当時、同僚のヴェーバーとともに電磁式の電信の実験をしていた。ただ、この出会いの話を裏づける確かな史料は無い。1845年、彼はロンドンでキリスト教に改宗し、ロイターと名を改めた。1848年の革命のころにはベルリンで出版に関わり、政治的なパンフレットを出したが、革命が挫折するとパリへ移った。

ポール・ジュリアス・ロイター
ポール・ジュリアス・ロイターWikimedia Commons Rudolf Lehmann · Public domain

パリには、1835年にシャルル=ルイ・アヴァスが作った世界で最初の通信社があった。各地の新聞記事を翻訳し、ニュースを集めて売る商売である。ロイターはそこで働き、情報を売るという仕事を身をもって学んだ。そして独立した。

1850年、ロイターはアーヘンに移り、伝書鳩を使った。ブリュッセルで株価や商品の相場を受け取り、極めて薄い紙に小さな字で書きつけ、鳩の脚に結んだ小さな袋に入れて放つ。鳩はおよそ2時間でアーヘンに着く。そこで受け取った相場を、電信でベルリンへ送る。郵便列車よりも何時間も早く届いた。途中で鷹に襲われたり、道に迷ったりする危険があるので、同じ知らせを何羽かの鳩に持たせて放ったという。飼っていた鳩の数は数十羽ともそれ以上ともいわれ、はっきりしない。客は銀行家や商人だった。相場の動きが他人より数時間早く分かれば、それだけで儲けが出る。ロイターが売ったのは、その時間の差だった。

ポール・ロイターの肖像(写真家ナダール撮影)
ポール・ロイターの肖像(写真家ナダール撮影)Wikimedia Commons Nadar · Public domain

しかし、この商売は長くは続かなかった。1851年、アーヘンとブリュッセルの間に電信線が開通し、鳩は不要になった。ロイターは、次の空白を見つけた。同じ年、ドーヴァー海峡に海底ケーブルが敷かれ、イギリスと大陸が初めて電信でつながったのである。ロイターはロンドンへ移り、王立取引所の近くに小さな事務所を構えた。

ロンドンでの始まりは楽ではなかった。新聞は自前の特派員を抱えていて、外から来たドイツ人の情報を買おうとしなかった。最初の客は、ここでも新聞ではなく、商人や株の仲買人だった。転機は1858年に訪れる。ロンドンの主要な新聞の多くが、ロイターの配信を受ける契約を結んだのである。翌1859年、フランス皇帝ナポレオン3世がオーストリアとの戦争をほのめかす演説をしたとき、ロイターはその内容をいち早くロンドンへ伝え、名を上げた。

決定的だったのは、1865年のエイブラハム・リンカーン暗殺の知らせである。大西洋を渡る電信のケーブルはまだ通じていなかった(大西洋横断電信ケーブルは翌年である)。アメリカからの知らせは船で運ばれてくる。ロイターはアイルランドの南西端に専用の電信線を引き、アメリカから来る船が港に着く前に、船から投げ込まれた密閉した容器を小舟で拾わせ、すぐに電信でロンドンへ送る仕組みを作っていた。4月14日の暗殺の知らせは、こうして4月26日、ほかのどこよりも早くロンドンに届いた。

大西洋横断電信ケーブルに関わる図版:Atlantic cable Map
大西洋横断電信ケーブルWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ロイターの会社は1865年に株式会社になった。1872年にはペルシアの国王から、鉄道や鉱山、銀行などに関する途方もなく広い利権を手に入れ、一国が外国人に与えた最も大きな譲歩と評された。しかしロシアの反対やペルシア国内の反発で、その大部分はまもなく取り消された。ロイターは1878年に経営から退き、1899年に死んだ。

19世紀の後半、フランスのアヴァス、ドイツのヴォルフ、イギリスのロイターの三つの通信社は、1870年に協定を結び、世界を取材と配信の縄張りに分け合った。その境界は、ほぼそれぞれの国の勢力圏と重なっていた。情報の網は、帝国の網の上に敷かれたのである。

ロイターの風刺画(1872年)
ロイターの風刺画(1872年)Wikimedia Commons Melchiorre Delfico · Public domain

三社の縄張りの取り決めは60年あまり続いた。それを崩したのは、20世紀に力を付けたアメリカの通信社である。新聞社が共同で作ったその通信社は、ヨーロッパの通信社が決めた境界に縛られず、自分で世界のニュースを集めて売ることを求め、1934年、古い協定はついに終わった。ロイター自身も変わった。第二次世界大戦中の1941年、会社はイギリスの新聞界が共同で持つ形に改められ、どの政府や利害にも左右されず、正確で偏らない報道を守るという原則が定められた。国の戦争のさなかに、あえて独立をうたったのである。

ロイターが打ち立てた原則は、いまも通信社の基本になっている。速さ。正確さ。誤った知らせを流せば信用が失われ、信用こそが商品そのものだったからである。そして、意見を書かないこと。事実だけを送り、解釈は買った新聞に任せる。これは道徳から生まれたのではなく、立場の違う多くの新聞に同じ記事を売るための商売の必要から生まれた。

ロンドン市内にあるロイターの胸像
ロンドン市内にあるロイターの胸像Wikimedia Commons Quick fix · CC BY 2.0

ロイターは2008年にカナダのトムソン社と合併し、トムソン・ロイターになった。その収入の大部分は、いまも報道ではなく、金融の情報を流す端末から来ている。相場の情報を他人より速く売る。170年前にアーヘンで鳩を放っていたときと、本質は同じ商売である。

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