アラブの春

概要
露天商の焼身自殺をきっかけに、チュニジア・エジプト・リビア・イエメンで政権が倒れた。民主化に落ち着いたのはチュニジアだけで、シリアは内戦になる。
場所
36.81°N 10.18°E · チュニジア
本文
2010年12月17日、チュニジア中部の地方都市シディ・ブジドで、26歳の露天商ムハンマド・ブアジジが、路上で野菜や果物を売っていたところを役人にとがめられ、商品と秤を取り上げられた。役所に返還を訴えても相手にされなかった彼は、その日のうちに県庁の前で体にガソリンをかぶり、火をつけた。役人に平手打ちされたとも伝えられたが、当の役人は否定し、のちに罪を問われていない。
ブアジジは翌年1月4日に亡くなった。だがその前から、シディ・ブジドでは抗議が始まっていた。大学を出ても職が無い若者、警察と役人の横柄さ、大統領一族の汚職。抗議は全国に広がり、警察の発砲で死者が出ると、さらに大きくなった。1月14日、1987年から23年にわたって国を治めてきたベン・アリ大統領は、サウジアラビアへ逃れた。焼身からわずか4週間だった。

アラブの国々には、似た事情が積み重なっていた。人口のうち若い世代が多く、職が足りない。2010年には世界の穀物価格が高騰し、パンの値段が上がっていた。そして多くの国で、同じ指導者が数十年にわたって権力を握り、選挙は形だけで、秘密警察が人々を見張っていた。
チュニジアで起きたことは、衛星放送のアルジャジーラや、携帯電話で撮られてネットに上げられた映像を通して、たちまちアラブの国々に伝わった。隣の国でできたなら、自分たちにもできるかもしれない。1月25日、エジプトでは首都カイロのタハリール広場に人々が集まりはじめた。集会の呼びかけには、フェイスブックなどの交流サイトが使われた。広場は18日間にわたって占拠され、2月11日、30年近く大統領の座にあったムバラクが辞任した。軍が大統領を見限ったことが決め手だった。

2月にはリビアで、42年にわたって権力を握ってきたカダフィに対する蜂起が起きた。カダフィは軍で反乱を押しつぶそうとし、東部の都市ベンガジに迫った。国連の安全保障理事会は市民を守るための武力の行使を認め、3月から北大西洋条約機構(NATO)の国々が空爆を始めた。10月、逃げていたカダフィは故郷の近くで反体制派の兵に捕らえられ、殺された。イエメンでも抗議が続き、33年にわたって大統領だったサーレハが、2012年に退いた。
だが、どこでも同じように進んだわけではない。湾岸の島国バーレーンでは、首都の広場を埋めた抗議が、サウジアラビアなどの軍の助けを借りた政府に鎮圧された。モロッコやヨルダンでは、国王が憲法の改正などの改革を約束して、抗議を収めた。産油国の多くは、国民に手厚い給付を配って不満を和らげた。

そしてシリアでは、2011年3月、南部の町ダルアーで、壁に反政府の落書きをした子どもたちが捕らえられたことから抗議が始まった。アサド政権は抗議を武力で押しつぶそうとし、反体制派も武器を取って、国は内戦に入った(シリア内戦)。外国の勢力が双方を支え、混乱の中から過激派の「イスラム国」が勢力を広げた(「イスラム国」の台頭)。死者は数十万人にのぼり、国外に逃れた難民は数百万人に達した。その一部がヨーロッパを目指したことで、2015年の難民危機も起きている(欧州難民危機)。アサド政権が倒れるのは、ずっと後の2024年12月のことである。
10年後に振り返ると、政権が倒れた国の行方は分かれた。エジプトでは2012年の選挙でイスラム主義のムスリム同胞団出身のムルシーが大統領となったが、翌2013年、軍がこれを退け、軍出身のシーシーが大統領となった。以前よりも厳しい統治が戻ったといわれる。リビアとイエメンは、国が分裂したまま内戦が続いた。

民主化に落ち着いたと言えるのは、発端のチュニジアだけだった。チュニジアでは、宗教政党と世俗の政党が対立しながらも話し合いで新しい憲法を作り、2015年には、その対話を仲立ちした市民団体がノーベル平和賞を受けた。だがそのチュニジアでも、2021年、大統領が議会を停止して権限を自分に集め、民主化の歩みは大きく後退した。
政権を倒すことと、次の仕組みを作ることは別だった。長い独裁の下では、政党も、市民の団体も、信頼される役所も育っていない。古い政権が倒れたとき、組織として残っていたのは、軍と、宗教の団体と、武器を持つ集団だった。ただ、「アラブの人々は独裁を受け入れている」という見方を、この出来事が覆したことも確かである。