できごと

エリザベス救貧法

Poor Relief Act 1601
AD1601年
重要度 4
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国ポーランド・リトアニア共和国スウェーデンポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国フランス王国スペインWatassid MoroccoEngland and Irelandクリム・ハン国ヴェネツィア共和国スコットランドNaplesFinnmarkプロイセンHabsburg NetherlandsAD1601年ロンドン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1601年の版図を描いています(20勢力)。

概要

修道院が解散させられ、貧しい人を養ってきた受け皿が消えた。囲い込みで土地を失った人々が道にあふれ、物乞いと浮浪を罰する法だけが重ねられていく。罰しても減らないと分かったとき、イングランドは別のやり方を法にした。教区ごとに貧民監督官を置き、住民から救貧税を取り立てる。働ける者には仕事の材料を渡し、働けない老人と病人には手当を渡し、親のない子は徒弟に出す。慈善ではなく、税で支える。誰を助けるかを、教区という土地の単位で決める仕組みは、三百年以上続いた。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

中世のイングランドで、貧しい人々を支えていたのは、主に教会と修道院だった。修道院は門前で施しをし、旅人や病人に寝る場所と食べ物を与えた。教区の教会にも、施しのための寄付が集まった。救いは信仰の行いであり、施すことは、施す側の魂を救う善行と考えられていた。

その受け皿が、16世紀に消えた。1530年代、ローマ教皇と決別したヘンリー8世は、国じゅうの修道院を解散させ、その土地と財産を取り上げた。土地の多くは王から貴族や富裕な者たちに売られ、修道院が続けてきた施しも、そこで働いていた人々の暮らしも、一緒に失われた。

同じころ、農村では土地の囲い込みが進んでいた。羊毛の値が上がり、畑を耕させるより、生け垣で囲って羊を放すほうが儲かるようになったからである。土地を追われた農民が村を離れ、仕事を求めて道にあふれた。トマス・モアは1516年のトマス・モア『ユートピア』の中で、羊が人を食い尽くしていると書いた。物価の上昇、人口の増加、戦争から帰った兵士、不作の年が重なり、道で物乞いをする人々の姿は、為政者にとって治安の問題になった。のちの囲い込みに続く変化は、すでにこのころ始まっていた。

囲い込みに関わる図版:Reeve and Serfs
囲い込みWikimedia Commons anonymous (Queen Mary Master) · Public domain

国がまずとった手は、罰することだった。働けるのに物乞いをする者は鞭で打たれ、耳に焼けた鉄で穴を開けられた。1547年には、浮浪者に焼き印を押して2年間奴隷として働かせることを定めた法律まで作られた(あまりに過酷で、まもなく廃止された)。繰り返し捕まった者を死刑にできると定めた法もあった。しかし、いくら罰しても、道の人々は減らなかった。

少しずつ見えてきたのは、道にいる人の多くが、働きたくないからではなく、働く場所がないから道にいる、ということだった。そして、年老いた人、病気の人、体の不自由な人、親を亡くした子どものように、そもそも働けない人もいる。罰するだけでは片付かない。16世紀の後半、各地の町では、住民から金を集めて貧しい人を助ける試みが始まり、国の法律もしだいにそれを取り込んでいった。

1601年、エリザベス1世の治世の終わりに、それまでの法律を一つにまとめ直した救貧法が作られた。のちにエリザベス救貧法と呼ばれる法である。その要は、教区を単位にしたことにある。教区は教会が受け持つ地域で、人々の暮らしの単位でもあった。教区ごとに、地元の有力者の中から貧民監督官が任命され、教会の役員とともに貧しい人の世話を受け持った。

その費用は、教区の住民から救貧税として取り立てた。寄付ではない。土地や家を持つ者は、払うことを義務づけられ、払わなければ罰せられた。集めた金で、監督官は貧しい人を三つに分けて扱った。働ける者には、麻や羊毛、鉄などの材料を渡して仕事をさせ、その稼ぎで暮らさせる。年老いた者、病気の者、障害のある者など働けない者には、手当や住まいを与える。親のない子や、親が養えない子は、徒弟として職人や農家に預け、仕事を覚えさせる。働けるのに働こうとしない者は、矯正院に送られた。

救いが、施す人の気持ちに任されるものから、税と役人による制度に変わった。それがこの法の大きな意味だった。この仕組みは、細かい改正を重ねながら、200年以上にわたってイングランドの貧民救済の土台になった。

だが、教区が払うということは、教区がよそから来た貧しい人を引き受けたくないということでもあった。1662年の定住法は、新しく移ってきた者が将来教区の負担になりそうなら、生まれた教区へ送り返せると定めた。貧しい人は、仕事を求めて別の土地へ移ることが難しくなった。誰を助けるかを土地の単位で決める仕組みは、誰を追い出すかを決める仕組みでもあった。

18世紀の終わり、パンの値が高騰すると、イングランド南部の多くの教区は、パンの値と家族の人数に合わせて、低い賃金を救貧税で補うようになった。地名から取ってスピーナムランド制度と呼ばれる。これは貧しい労働者を飢えから救ったが、雇い主が賃金を低く抑え、その差を税で埋めさせる結果も招いたと批判された。トマス・マルサスは、貧しい人を助ければ人口が増えて貧困が広がるだけだと論じた。

1834年、議会は新救貧法を作った。働ける者に家の外で手当を渡すことをやめる方向に改め、助けを求めるなら救貧院(ワークハウス)に入ることを条件にした。そして救貧院の暮らしは、最も貧しい自活の労働者の暮らしより楽であってはならないとされた。家族は男女別々に分けられ、粗末な食事と単調な労働が課された。ディケンズ『オリヴァー・トゥイスト』が描いたのは、この救貧院の世界である。助けはするが、惨めにする。助けを求めるのは恥だという感覚が、ここで制度に書き込まれた。

救貧法は、近代の社会保障が向き合う二つの問いを、最初に法の形で立てた。誰が払うのか。誰を助けるのか。この問いへの答えは、その後、国によって大きく分かれた。明治の日本の恤救規則は、頼れる身内のいない者だけを助けると答えた。ドイツのビスマルクの社会保険は、働く者が前もって保険料を出し合っておくと答えた。そしてイギリス自身は、20世紀の半ば、ベヴァリッジ報告が描いた、全員が加わり全員が受け取る仕組みへ移り、1948年に救貧法そのものを廃止した。1601年の法から350年近くがたっていた。

同じ時代のできごと

一条鞭法AD1581年太閤検地AD1582年(天正10年)〜岩殿山城1582年天正遣欧少年使節AD1582年2月20日(天正10年1月28日)グレゴリオ暦への改暦AD1582年10月15日本能寺の変AD1582年6月21日山崎の戦いAD1582年7月2日(天正10年6月13日)イェルマークのシビル汗国征服AD1582年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1601年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →