できごと

ベヴァリッジ報告

Beveridge Report
AD1942年12月2日
重要度 4
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概要

戦争のさなか、イギリス政府の委員会が社会保険の見直しを報告書にまとめた。ウィリアム・ベヴァリッジは、退治すべき五つの巨人の名を挙げる。窮乏、疾病、無知、不潔、怠惰。全国民が同じ保険に入り、失業と病気と老いに備え、医療は税で賄って誰でも無料でかかれるようにする。灯火管制の街で人々は行列を作ってこの報告書を買い、二年足らずで六十万部を超えて売れた。戦争が終わると、報告に沿って国民保険法と国民保健サービスが作られる。「ゆりかごから墓場まで」という言い方は、この設計図から生まれた。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

本文

1941年6月、ドイツの空襲が続くロンドンで、イギリス政府は社会保険の仕組みを見直す委員会を作った。当時のイギリスには、20世紀の初めから積み上げてきた健康保険、失業保険、年金などが、それぞれ別の役所と別の決まりでばらばらに動いていた。委員会に求められたのは、その継ぎはぎを整理するという、どちらかといえば事務的な仕事だった。

委員長に選ばれたのは、ウィリアム・ベヴァリッジ(1879〜1963年)である。インドのベンガルで、イギリスの役人の家に生まれた。オックスフォードで学んだのち、ロンドンの貧しい地区で社会事業に携わり、失業の研究で名を上げた。1909年には、のちの首相チャーチルのもとで、仕事を探す人と求人を結ぶ職業紹介所の制度を作っている。その後はロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの学長を長く務めた。人を使うのがうまいとは言えず、政府の中では扱いにくい人物とみられていた。彼を事務的な委員会に回したのは、厄介払いの意味もあったと言われる。

ウィリアム・ベヴァリッジ
ウィリアム・ベヴァリッジWikimedia Commons British Government · Public domain

ベヴァリッジは、整理だけで終わらせなかった。1942年12月に公表された報告書『社会保険および関連サービス』は、戦後のイギリスの社会全体の設計図だった。報告書は、戦後の再建の道に立ちはだかる五つの巨人の名を挙げた。窮乏、疾病、無知、不潔、怠惰である。貧しさや病気を、個人の怠けや性格のせいにするのではなく、社会全体で打ち倒すべき敵として描いた。

報告書が直接扱ったのは、このうち窮乏だった。その仕組みはこうである。働く年齢の国民は、職業や収入にかかわらず、全員が同じ一つの国民保険に入る。誰もが同じ額の保険料を払い、失業したとき、病気やけがで働けないとき、年を取って引退したとき、出産のとき、家族が亡くなったときに、同じ額の給付を受ける。給付の額は、それだけで最低限の暮らしが立つ水準にする。国が国民の暮らしの底を支え、その上は各自の努力と貯えに任せる、という考えだった。

この保険が成り立つ前提として、報告書は三つの条件を挙げた。子どものいる家に手当を出すこと。誰もが無料でかかれる包括的な医療の仕組みを、保険とは別に国が税で用意すること。そして、政府が大量の失業を出さないよう雇用を守ること。最後の条件は、同じころジョン・メイナード・ケインズが唱えていた、政府が景気を支えて失業を防ぐという考えと深く結びついていた。

報告書は、異例の売れ行きを見せた。灯火管制で暗い街の書店や政府刊行物の売り場に人々が列を作り、2年足らずで60万部を超えて売れた。発表から間もない世論調査では、国民の大多数がこの報告書のことを聞いていたとされる。分厚い政府の報告書が、これほど多くの人に買われたことはなかった。

なぜ、それほど読まれたのか。空襲は、貧しい者の家にも豊かな者の家にも同じように爆弾を落とした。配給制のもとで、人々は同じ量の砂糖と肉を分け合っていた。子どもたちは田舎へ疎開し、都市の貧しい家の子のやせ細った姿が、受け入れた家々を驚かせた。兵士として戦う若者たちは、戦争が終わった後に、1930年代のような失業と貧困が待っているのかを知りたがっていた。戦争は、皆で負担を分け合う社会を、一度実際にやってみせた期間でもあった。報告書は、その経験を平和の時代にも続けようという約束として受け取られた。

チャーチルの政府は、報告書に慎重だった。戦争に勝つことが先で、戦後の巨額の支出を約束するのはまだ早い、という立場だった。1943年の議会の討論で政府が実施を先送りする姿勢を見せると、与党の側からも反発が出た。報告書は、戦後の政治の大きな争点になった。

1945年7月、ヨーロッパの戦争が終わった直後の総選挙で、戦争を勝ち抜いたチャーチルの保守党は大敗した。クレメント・アトリーの労働党が、報告書の実現を掲げて圧勝したのである。新しい政府は、1945年に家族手当の法律、1946年に国民保険法と国民保健サービス法を次々に作った。1948年7月、国民保健サービスが動き始め(NHSの発足)、人々は医者にかかっても、その場で金を払わなくてよくなった。同じ年、エリザベス救貧法以来350年近く続いた救貧法の仕組みが、最終的に廃止された。生まれてから死ぬまでを国が支えるという意味の「ゆりかごから墓場まで」という言い方が、イギリスの福祉国家を表す言葉として広まった。

救貧法は、貧しいと認められた者だけを助けた。助けを受けることは、恥と結びついていた。ベヴァリッジの設計は、全員を対象にした。誰もが保険料を払い、誰もが受け取る。だから、受け取ることは恥ではなく、権利になる。この考えは海外にも広がった。敗戦後の日本でも、1950年に出された社会保障制度についての勧告にその影響が見られ、やがて1961年の国民皆保険へとつながっていく。

ただし、この設計にはいくつかの前提があった。仕事が十分にあること。多くの家に、外で稼ぐ夫と家にいる妻がいること。報告書では、結婚した女性は夫の保険を通じて守られる形になっていた。そして、保険料を払う若い世代が、年金を受け取る老いた世代より十分に多いこと。この三つの前提は、その後の数十年でどれも大きく変わった。失業は再び増え、女性の多くが外で働くようになり、少子化と長寿で支える側と支えられる側の釣り合いが崩れていった。

いま、どの国もベヴァリッジと同じ問いの前に立っている。誰が払い、誰が受け取り、どこまでを社会全体で支えるのか。戦争のさなかに一人の経済学者が名指しした五つの巨人は、姿を変えながら、まだ倒されてはいない。

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