概要
1950年代のシンガポールでは、人口の多くが、燃えやすい木造の小屋が密集する集落や、すし詰めの長屋に暮らしていた。自治を始めたリー・クアンユーの政府は、1960年2月1日、住宅開発庁を作り、高層の公営住宅を猛烈な速さで建て始めた。1961年に大火で一万六千人が家を失うと、建設はさらに急がれた。1964年からは、住む人が99年の借地権つきで住戸を買える制度を始めた。民族ごとに住む地区が偏らないよう、棟ごとの割合も定めた。いまでは国民のおよそ8割が公営住宅に住み、その大半が自分の住戸を持っている。
場所
1.35°N 103.82°E · シンガポール
本文
19世紀にイギリスの港町として発展したシンガポールには、中国、マレー、インドから多くの移民が集まった(ラッフルズのシンガポール)。第二次世界大戦のあと、人口は急に増えたが、住まいは追いつかなかった。人口の多くは、木の板とトタンでできた小屋が密集する集落「カンポン」や、町の中心部の、一つの部屋に何家族もが暮らすすし詰めの長屋に住んでいた。植民地の政府の住宅の機関が建てた住宅は、わずかだった。
1959年、イギリスから内政の自治を得たシンガポールで、リー・クアンユーが率いる人民行動党が政権を握った。リーは、住まいの問題を解決できなければ、政府は人々の信頼を失い、共産主義の勢力に付け入られると考えた。1960年2月1日、政府は住宅開発庁を作り、5年で5万戸の住宅を建てる計画を立てた。
1961年5月、ブキ・ホー・スウィーの木造の集落で大火が起き、一万六千人が一夜にして家を失った。住宅開発庁は、焼け跡に、わずか9か月で高層の住宅を建て、被災した人々を移した。高層の公営住宅は、驚くべき速さで建てられ、最初の5年の計画は、目標を上回って達成された。
1964年、政府は、公営住宅の住戸を、住む人が99年の借地権つきで買える制度を始めた。1968年からは、働く人と雇い主が積み立てる中央積立基金から、住戸を買う代金を払えるようになった。リーは、自分の家を持つ人々は、国に対して責任を持つようになると考えていた。1989年には、民族ごとに住む地区が偏らないよう、一つの棟や地区に住む中国系、マレー系、インド系などの割合に上限を設けた。
住宅開発庁の団地は、学校、市場、屋台の集まる食堂街、診療所、鉄道の駅をそろえたニュータウンとして、島の各地に作られた。2020年代には、国民のおよそ8割が公営住宅に住み、その9割ほどが自分の住戸を持っている。公営住宅が貧しい人のための住まいではなく、国民の大多数の住まいになっている例は、世界でも珍しい。