概要
第一次世界大戦が終わっても、イギリスとフランスは、敗れたドイツとオーストリアへの海上の封鎖を続け、そこでは子どもたちが飢えていた。イギリスのエグランタイン・ジェブは、やせ細った子どもの写真を載せたビラを街頭で配り、罰金を科された。1919年5月、ジェブは妹とともに、敵国の子どもも含めて飢えた子どもを救うための基金、セーブ・ザ・チルドレンを作った。1923年には、子どもが持つべき権利を5か条にまとめ、翌年、国際連盟がこれを「子どもの権利に関するジュネーヴ宣言」として採択した。子どもの権利を国際的にうたった初めての文書である。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
第一次世界大戦の休戦のあとも、連合国は、講和がまとまるまで、ドイツとオーストリアへの海上の封鎖を解かなかった。食べ物が入らない国々では、子どもたちが栄養失調とくる病、結核に苦しんでいた。だがイギリスでは、敵国の子どもに同情することは、裏切りに近いとみなす空気があった。
エグランタイン・ジェブは、イギリスの裕福な家に生まれ、オックスフォードで学んだあと、教師を経て、慈善の活動に関わるようになった。1919年、彼女は「飢餓封鎖反対」の運動に加わり、ウィーンの痩せ細った子どもの写真を載せたビラを、ロンドンのトラファルガー広場で配った。ビラは政府の許可を得ていないとして、彼女は逮捕され、罰金を科された。だが、彼女を裁いた検察官は感銘を受け、罰金を払い、最初の寄付をしたと伝えられる。
1919年5月、ジェブは妹のドロシー・バクストンとともに、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで集会を開き、セーブ・ザ・チルドレン基金を立ち上げた。敵か味方かを問わず、飢えた子どもを救う。基金はたちまち多くの寄付を集め、ドイツ、オーストリア、さらに飢饉のロシアなどに食べ物を送った。ジェブは、子どもへの援助は慈善の施しではなく、子どもが持つ権利だと考えた。
1923年、ジェブは、子どもの権利をわずか5か条の短い宣言にまとめた。子どもには、体と心が正常に育つための手段が与えられなければならない。飢えた子には食べ物が、病気の子には看護が、遅れた子には助けが、孤児には住まいが与えられなければならない。災いのときには、子どもが最初に救われなければならない。生計を立てられるよう育てられ、搾取から守られなければならない。そして、その才能を仲間のために役立てるよう育てられなければならない。
1924年、国際連盟はこの宣言を「子どもの権利に関するジュネーヴ宣言」として採択した(国際連盟の発足)。子どもの権利をうたった初めての国際的な文書であり、1959年の国連の子どもの権利宣言、1989年の子どもの権利条約へと受け継がれていく。ジェブは1928年に亡くなった。セーブ・ザ・チルドレンは、いまでは世界の百を超える国で活動している。