概要
1946年5月19日、配給の遅れと飢えに苦しむ東京の人々およそ25万人が、皇居前の広場に集まった。「米よこせ」を掲げた、食糧メーデーである。数日前には世田谷の住民が皇居に押しかけ、台所を見せろと求めていた。集会には「朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民飢えて死ね」と書いたプラカードが現れ、掲げた人は不敬の罪で起訴される。翌日、占領軍のマッカーサーは、暴民によるデモは許さないと声明を出した。一方で、アメリカからの小麦や脱脂粉乳の援助が始まり、日本の食卓は小麦と乳製品のほうへ動いていった。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
本文
敗戦の翌年、1946年の春、日本の食べ物の事情は最悪だった。前の年の米は、冷害と戦争による人手と肥料の不足で、大凶作だった。海外からは数百万人の兵士と民間人が引き揚げてくる。東京では、米の配給が何日も遅れ、遅配と欠配が続いた。
5月12日、東京の世田谷で、住民が「米よこせ区民大会」を開き、そのまま皇居へ向かって、天皇の台所を見せろと求めた。一週間後の5月19日、皇居前の広場で「飯米獲得人民大会」が開かれ、およそ25万人が集まった。食糧メーデーである。その少し前の5月1日には、戦後初めてのメーデーが開かれたばかりだった。
集会には、一枚のプラカードがあった。天皇の言葉をまねて、「国体はゴジ(護持)されたぞ 朕はタラフク食ってるぞ ナンジ人民 飢えて死ね」と書いてある。掲げた人は、天皇を侮辱した不敬の罪で起訴された。占領下でも不敬罪はまだ残っていたのである。裁判は名誉毀損の罪に切り替えられ、のちに恩赦で終わった。
翌20日、マッカーサーは、組織された暴民によるデモと暴力は許さない、と声明を出した。占領軍が、日本の人々の運動を押さえにかかった最初の声明とされる。一方で占領軍は、アメリカから小麦やとうもろこしを放出し、脱脂粉乳の援助も始まって、飢えはしのがれた。学校給食のパンと脱脂粉乳(学校給食)に育った世代が、日本の食卓を米から小麦へ動かしていく。